勿体無い精神で短編再録その4 |
- 日時: 2013/03/24 14:35
- 名前: 餅ぬ。
- 「いらっしゃい、ハヤテ君」
こうやってハヤテ君を私の家に招くのは、何か月ぶりのことだろうか。それ以前に、彼と最後に会ったのはいつごろだったのだろうか。そんなことさえ思い出せないほど、私と彼が顔を合わせるのは久しぶりのことだった。
「お邪魔します」
そう言うハヤテ君の顔は、いつも通り彼特有の穏やかな笑みを湛えていたが、その瞳からは僅かな闇が見て取れた。鈍感な彼も、これから私たちの間で交わされる会話の内容と重さを感じ取っているようだ。 私たちは無言で階段をあがる。付き合い始めた当時は、この短い階段を登る時間さえも惜しくて、ずっと他愛も無い会話を繰り返していた。無意味に振り返って彼と目を合わせては、二人で照れくさそうに笑い合ったこともあった。 けれど、今はたった階段二段分の距離しか開いていないのに、それが何百メートルも離れているように思えてしまう。 彼の声は私に届かず、私の声も彼に届かない。振り返っても彼の顔はきっと見えないし、彼もこちらを見てくれてはいない。そんな果てしない距離が、私とハヤテ君の間にあった。 重苦しい雰囲気のまま、階段を登り終え、私はハヤテ君を部屋の中へ招き入れた。彼はもう一度「お邪魔します」と呟いて、私の部屋に入って行った。なんだかその一言が他人行儀に感じられて、改めて私とハヤテ君の間に今さら埋めることのできない溝が生まれてしまったことを実感する。 少し前ならば、きっとこの事実を受け入れることができず、一人心の中で嘆き悲しんでいただろう。けれど、今となってはもうそんな感情は沸いてこない。溢れてくるのは、やるせない感情と僅かな罪悪感だけ。 ドアを閉めると、私の部屋は本当に私とハヤテ君二人だけの空間になった。肌に突き刺さるような緊張感に包まれたこの空間に、かつての蕩けるような甘さは残っていない。
「前に来たときより、なんだかすっきりしましたね」
ハヤテ君が私の部屋を見回しながらそう言う。
「この前大掃除してね、一気に荷物を片づけたのよ。いつまでも留学帰りの気分じゃいられないでしょ?」 「確かにそうですね。……お手伝い、出来なくてすいません」
そう言うハヤテ君の顔には、玄関で迎えた時よりも確かな陰りが浮かんでいた。私が迂闊に留学のことを話してしまったせいだ。私と彼の間に埋まることのない溝を造り出した元凶は、その三年間の留学だった。 私たちに、三年間という月日は長すぎたのだ。
* * *
私は高校を卒業した後、三年間海外の大学へ留学した。私とハヤテ君が付き合い始めたのは二年生の終わりごろだったので、すでに一年近くの月日が過ぎていた。そのころの私たちにはちょっとした倦怠期が到来しており、些細なことで喧嘩をするようになっていた。 喧嘩すると言っても、怒るのは私だけで彼は困ったように笑うばかり。そんな彼の態度が、少々鼻につき始めていた矢先に聞かされた海外留学の話。 私は悩んだ。喧嘩ばかりとはいえ、ハヤテ君のことは大好きだったし離れたくなかった。けれど、私はどこまでも見栄っ張りで、誰かにそんなことを言えるわけがなく留学の話は着々と進んでしまった。 そして留学が決定しかけていたころ、私はやっとハヤテ君に留学のことについて相談した。もちろん、貴方と離れたくないから行きたくないと思っている、なんてことは伏せておいた。今思えば、それが一つ目の間違いだったのかも知れない。 私の留学を聞いたハヤテ君は、一瞬驚いたような顔をして、その後すぐに焦ったような表情を浮かべた。そしてしどろもどろと、私の留学に否定的な意見を述べ始めた。それは随分と遠まわしな言い方だったけれど、彼の『行ってほしくない』という気持ちが伝わってきて、すごく嬉しくなったことを覚えている。 しかし留学がほぼ決定しかけていることを告げると、彼は簡単に私を引き止めることを諦めて、仕方ないですよね、と呟いた。 止めてくれると思っていた私は焦って、まだ決定したわけではないと懸命に伝えた。けれど、彼は私が留学へ行きたがっていると思い込んでいるらしく 「僕のことは気にしないでください」 「離れてしまうけど、ずっと応援していますから」 などと見当違いな言葉を並べた。 哀しかった。虚しかった。やるせなかった。なぜ止めてくれないの? と叫びたかった。 でも、やっぱり私は子供くさいほど見栄っ張りで、彼に本心を伝えることなんて出来なかった。ただ俯いて、こう言った。
――じゃあ、行く。
きっとこの時彼はいつものように笑っていたのだろう。一人やるせない悲しみにくれて俯いていた私に、その笑顔に寂しさが浮かんでいたかなんてわからない。 でも、もし彼がそんな笑顔を浮かべていて、私がその悲しみに気づけていたら、結果はもっと変わっていただろう。少なくとも、倦怠期特有の悶々とした関係のまま、私が海外へ行くなんて結果にはならなかったはずだ。
留学した後、彼からのメールの回数が増えた。距離を置くとお互いの大切さが分かってくる、というのはあながち嘘ではないようだ。私も毎晩彼に電話をかけた。日本に居るころよりも距離が縮まったような気がして嬉しかったが、故に会えない寂しさがどんどん胸に積もっていった。 留学して半年がたったころ、ハヤテ君から一通のメールが届いた。どんな内容だろう、といつものように胸を弾ませながら彼のメールを開いた。そこにはいつもより少し弾んでいる彼の文章と、一枚の写真が添付されていた。 その写真に写っていたのは、ハヤテ君とハヤテ君を囲む理沙たちの姿。どうやら大学のメンバーで飲み会のようなものを開いたようだ。相変わらず無邪気に笑う泉や、未成年なのにビールを飲んでいる理沙や美希を見て、私は呆れたように笑みを浮かべた。 そしてハヤテ君の方に視線をやると、彼の隣には見慣れない女性が座っていた。随分と親しいようで、肩まで組んでいる。 私は居てもたってもいられなくなって、ハヤテ君に電話をかけた。
あの隣の女の人は誰? なんであんなに親しそうなの? ねえ、誰なのよ!
思い出すのも恥ずかしいほど、あの時の私はヒステリックだった。慣れない海外の生活に、ハヤテ君に会えない寂しさ。そんな最中に見せられた、他の女性と仲良くしているハヤテ君の写真。全ての感情が、この時爆発した。 ハヤテ君は懸命に女性との仲を否定した。ただの大学の友人だと、この時は自分も彼女も酔っていたのだと。しかし、ヒステリーを起こしていた私の耳に彼の言葉がまともに入ってくるはずがなくて、訳の分からないことを口走って彼を罵った。 電話の奥で、彼が謝っていた。何度も何度も謝られて、その謝る声がどんどん弱々しくなっていくことに気がついて、私はやっと落ち着いた。 ごめん。そう一言呟いて、私は一方的に電話を切った。 そして自分の身勝手さに嫌気がさして、枕に顔を押し付けて忍び泣いた。
それから後は、当然のようにメールや電話の回数が減った。一応、ヒステリーを起こした次の日に電話で懸命に謝って仲直りしたけれど、所詮は顔を合わせず声のみで交わした会話。どう考えても、表面上だけの仲直りだった。 留学して一年、一日十回以上送っていたメールが一日二回になった。二年目には、三日に一回になっていた。電話も週に一回するかしないか。 日本に帰るその頃には、週に一回一言メールを交わすか交わさないかにまで、私とハヤテ君の距離は遠のいていた。それでも、まだ修復可能な距離だった。日本に帰ってまた何度か会って話をすれば、自然と縮まると私は思っていたのだ。
そして、留学から三年後。私は日本に帰ってきた。ハヤテ君が空港で迎えてくれた。久しぶりに会えた嬉しさで、私は思わず彼に抱きついた。 三年間会わないうちに、彼の身長は随分と伸び私を包み込めるほどになっていた。大人の男性になったハヤテ君の胸に顔をうずめながら、また今日から始まる二人の関係に想いを馳せていた。 しかし、現実は甘くなかった。 私はハヤテ君が初恋。ハヤテ君もまともに女性と付き合うのは私が初めて。所謂私たち二人は恋愛初心者だった。そんな二人が三年間も離れて、三年間変わらぬ熱い想いを持続させられるかと言われれば、それは難しいと言わざるを得ない。 それに、私が留学に行った時期も悪かった。倦怠期なんていう、一番二人で今後を考えていかなくてはいけない時期に、私は彼から離れてしまった。そしてあの勘違い電話。あの電話のせいで、私たちの間に深い溝が生まれてしまったのだ。 そして三年間という月日は、私とハヤテ君の周りの人間関係をがらりと変えるには十分すぎる時間だった。ハヤテ君の友人は、私の知らない人ばかりになっていた。 私の知らないハヤテ君の女友達が、これ見よがしに彼と彼女たちしか分からない大学の話をしてくるのだ。そのたびに、私は抑えようのない激情に襲われた。やり場のない嫉妬のせいで、何度も何度も枕を濡らした。 もし高校時代の友人関係が続いていて、ハヤテ君の周りにいる人間が泉や美希のような親しい者ばかりだったら、私はこんな嫉妬心に悩まされることはなかったのだろう。けれど、三年という時間は彼と共通の友人関係という最大の安心を奪ってしまった。 彼自身は何も変わっていなかった。優しくて、カッコ良くて、でもどこか抜けていて、愛らしい人だった。私だって、何も変わっていない。見栄っ張りで負けず嫌いで、相変わらず子供じみてて。 私たち二人は変わっていないのに、私たちを取り巻く環境が変わりすぎていて、何が何だか分からなくなった。
ハヤテ君と一緒にいれるのは嬉しい、でも彼はもう私の知っている彼じゃない気がして、一緒にいるのが怖くなった。 そして同じ日本にいて、徒歩で会いに行ける距離にいるのに、私たちの心の距離はどんどん離れてしまった。その心の距離はハヤテ君も感じているようだったが、心優しいけれど不器用な彼は私を傷つけるのを恐れて自分から距離を置いた。 高校時代の私とハヤテ君だったら、きっと激しい喧嘩なんかして熱く語りあったりしていたのだろう。けれど、私たちはもう大人。根本の性格は変わっていなくても、やっぱりお互い当時に比べて冷めてしまっている。 何より私はあのヒステリックな電話をかけてしまったことがトラウマになっており、昔のように彼を責め立てることができなくなっていた。私もハヤテ君も、自分から歩み寄ることができなくなっていたのだ。
そんなことが無数に重なり合って、現在に至る。
* * *
沈黙と紅茶の芳しい香りが私とハヤテ君を包み込んでいた。この張りつめた雰囲気を変えようと、苦し紛れに淹れてきた紅茶は、私の期待したような効果を生んでくれることはなかった。ただ、重苦しい雰囲気に紅茶の香りが足されただけ。 ハヤテ君も私もカップにそそがれた赤茶色の液体を見つめるばかりで、口にしようとはしない。俯いているから、お互い目を合わすことさえできない。未だかつて体験したことのない、静かで冷たい雰囲気が部屋中に充満していた。
「……飲まないの?」
できるだけ穏やかな口調を装って、彼に紅茶をすすめる。久しぶりにハヤテ君の為に淹れた紅茶だったので、味わってほしいという純粋な気持ちがまだ私の中にはあったのだ。 彼は私にすすめられるがまま、「いただきます」と呟いて紅茶を口に含んだ。そしてしばらく飲み進めた後、カップから口を離して静かな笑みを浮かべながらこう言った。
「昔より、少し濃くなりましたね」 「苦かった?」 「いいえ、最近少し濃い紅茶の方が好きですから。ちょうど良い具合です」 「そう。なら良かったわ」
会話を交わしたおかげで、場の緊張感が少しだけ緩和された。私は安堵しながら、ハヤテ君が濃いと言った紅茶を口に運んだ。いつもと何も変わらない味のように思えるが、いつの間にか私は濃い目の紅茶を淹れるようになっていたようだ。 昔彼に淹れてあげていた紅茶は、もう少し薄くて柔らかい味だったような気がする。彼も私も苦いものがあまり好きではなかったから、必然的にそんな味になっていたのだろう。 けれど、今彼と飲んでいるこの紅茶は濃くて苦い。昔の私たちには飲めない、大人の味に変化していた。そしてそれを何気なしに飲めるようになった私と彼も、気づかぬうちに随分と大人になっていたようだ。
「大人になったわよね、私たち」
独り言のように、小さな声で呟いた。けれど、どんな小さな声で呟いてもこの静かな空間には無意味なことであり、私の独り言はしっかりハヤテ君の耳にまで届いていた。
「そうですね……」
寂しそうな声だった。
「大人になったから、こんなことになっちゃったのかな」 「そうかもしれません」 「三年間、私が留学なんかしたせいなのよね」 「……ヒナギクさんだけのせいじゃないです。僕が、貴女の気持ちを理解しきれなかったから」 「そんなことないわ、ハヤテ君は十分に私を理解してくれてた」
僕のせい、いや私のせい。そんな自分の傷つけ合いが何分も続いた。あなたは悪くない、自分が悪いとお互いに自己嫌悪し合うだけの時間。なんて不毛な時間だろうか。けれど、昔のようにたがいに本心をぶつけ合うことができなくなっていた私たちには、そんな会話しかできなかった。 ごめんなさい、と何度相手に行ったか分からなくなってきたころ、私は気を決して本題に映ることにした。もう、全てを終わりにしようと決心したのだ。
「ハヤテ君」
今日、初めて彼の瞳をじっと見据えた。過去の面影は僅かに残っているものの、女顔とは言えなくなったハヤテ君の顔立ち。目の色も髪の色も目もとの優しさも、何も変わってはいないのに遠い人のように思えた。 ハヤテ君も同じことを思っているのだろうか。長かった髪をバッサリ切って、昔よりも少しだけ身長が高くなった私を見て、彼も同じように私を遠い人だと感じているのだろうか。 そう考えると、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。久しぶりに感じたこの感覚のおかげで、まだ自分が心の奥底で彼を愛しているということが自覚できた。 けれどその僅かな恋心では、今から言わんとしているこの言葉を押しとどめることはできない。チクチクと痛む胸を無視して、私はゆっくりと口を開いた。
「別れましょうか」
その言葉を放った瞬間、ハヤテ君の目が一瞬大きく見開かれた。けれどその瞳はすぐに元の大きさへと戻り、その後寂しげに薄っすらと細められた。彼も、この言葉を受け入れてくれたようだ。 もしかしたら、ハヤテ君も同じようなことを言おうとしていたのかも知れない。自分が言おうとした矢先、私が同じ言葉を言ったから驚いて目を見開いたのかも知れない。もし、そうだとしたらなんだか少し悲しい。 願わくば、彼の見開かれた瞳の理由は私にこの言葉を言われたショックのせいであってほしい。私と同じように彼も心のどこかにまだ私への恋心を宿していて、その恋心がこの言葉に反応したせいだと思いたい。 けれど、そんなハヤテ君の心の中の真実を私が覗き見れるわけがなく。尋ねるにしても、あまりに無粋な質問なので心の中にこの疑問は秘めておいた。 またもや、沈黙が私たちを飲みこんだ。けれど、今回はお互いにしっかりと目を見据え合い、現実から逃げようとはしなかった。そして、決意を固めたかのようにハヤテ君の口が開かれた。
「……そうですね」
いつぞやの私が勝手に描いていた別れのシーンとは全く違う、静かな終焉だった。あの頃の私が描いていた別れは、お互いに泣きじゃくりながら本音をぶつけ合いながらの別れだった。けれど現実は素晴らしいほどに真逆。 あまりにも穏やかすぎて、これが私とハヤテ君の最後だということがなかなか理解できなかった。私から別れを切り出したというのに。
「……ヒナギクさん、最後に一つだけ聞いてもらえますか?」 「ええ……」
いきなりのハヤテ君の言葉に、少し驚きながら私は頷いた。けれど頷いた後、私は思い出したように急いで言葉を付け足した。
「でも、謝るのはなしよ。自分を卑下するのもダメ。良い言葉で締めくくって」
そう言う私を、ハヤテ君は困ったように笑いながら見つめた。そして言葉を選ぶようにしばらくの間沈黙し、ふうと小さく息を吐いた後静かな落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「ヒナギクさんの時々呟く『幸せ』っていう一言が大好きでした。貴女が幸せを感じてくれているということが、僕の一番の幸せでした。 三年間離れてしまったせいで、お互いの心も離れてしまったけれど、貴方の幸せが僕の幸せであることは今でも変わりません。 だから、これからも幸せであってください。僕以外の大きな幸せ、見つけてくださいね」
明るい口調だった。ところどころに後悔が滲んではいるが、ハヤテ君はこんな私の幸せを心から願ってくれていた。やっぱり、ハヤテ君はどこまでも優しい人だ。
「うん、絶対見つけるわ。新しい幸せ。だからハヤテ君も早く見つけてね」
そう言って、私はぎゅっとハヤテ君の手を握った。その瞬間、大きな彼の手が私の手を覆った。暖かなハヤテ君の手がとても懐かしく感じて、もう枯れて果てたと思い込んでいた涙が一粒机の上に落ちた。 その一粒がきっかけとなって、私はせきを切ったかのようにボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。子供のように泣きじゃくる自分が情けなくて、懸命に止めようとするけれど、溢れた涙は止められない。 ハヤテ君が子供をあやすように優しく頭を撫でてくれる。それがまた嬉しくて、頬に涙が伝う。
「ありがと、本当にありがとう。ハヤテ君のおかげで、私、自分が幸せになれるって分かったの。貴方のおかげで、私は幸せになれるのよ」
言葉になっているか分からないほどの涙声で、私は彼にそう告げた。こんなグチャグチャな言葉なのにハヤテ君はしっかり聞きとってくれたようで、小さな声で相槌を打ってくれた。
「僕もですよ。ヒナギクさんのおかげで、僕も人を幸せに出来るということが分かりました。ありがとうございます、ヒナギクさん」 その言葉を聞いて、私はまたひときわ大きな声で泣き始めた。もう、こらえるのは止めにした。最後だからこそ、ハヤテ君に私の弱いところを見せてあげようと思ったのだ。 こんな弱い私を最後まで支えてくれてありがとう、と言いたかったけれど、もう言葉にすることは出来なかったので心の中で呟いた。確かな根拠はないけれど、この心の呟きはハヤテ君に届いたような気がした。
一通り泣きじゃくって落ち着いた後、私は彼を玄関まで見送った。すでに日は傾いて、空は真っ赤に染まっていた。
「今までありがとうございました」 「こちらこそ、ありがとう」
そう言って、握手を交わした。この大きな手に包まれるのも最後だと思うと、またじわりと目尻に涙が浮かんできた。けれど、もう一度付き合おうとは思わない。だって、私と彼は新しい幸せを探そうと決めたのだから。
「ヒナギクさん」 「……わっ!?」
しばらく手を握り合っていると、突然ハヤテ君が私の腕を掴んで自分の胸元に引き寄せた。そして胸元に頭を預ける形に会った私の身体を、優しく、けれど力強くぎゅっと抱きしめた。
「なにしてるのよ」 「最後だから、少しだけ大胆になろうかなと」 「……バカ。こういうことは恋人同士のうちにしなさいよ」
そんな可愛くない憎まれ口を叩きながら、私はハヤテ君の胸に顔を押し付けた。懐かしいけれど、昔とはやっぱりどこか違う彼の香りが鼻をくすぐってくる。そんな彼の香りを、胸一杯に吸い込んだ。 しばらくして彼の腕が私の背中から解かれると、私たちは今日初めて……いや、三年ぶりに心の底から笑い合った。
「幸せになってくださいね」 「貴方こそ、次こそはきちんと幸せにしてあげなさい」
暖かな未来を夢見る別れの言葉と共に、私とハヤテ君の恋は終わりを告げた。
【別れましょうか】
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