奇妙で自信家な朝風さん。夢の中で猛アタック中。 |
- 日時: 2013/02/08 22:38
- 名前: 餅ぬ。
真っ白の床と壁に囲まれた部屋の真ん中あたりに、白い着物を身に纏った朝風さんが座っている。気が狂ってしまいそうなほどの白に包まれながら、彼女はなんて澄ました顔で座っているのだろうか。 白い空間にぽつりと浮かぶ彼女の黒く艶やかな髪を見ていなければ、きっと僕は気が触れてしまうだろう。真っ白の世界で唯一現実味を帯びている朝風さんの黒のおかげで、僕は狂わないでいられた。
「何をしてるんですか、朝風さん」
澄まし顔の彼女に問いかける。埃一つ、影一つないこの部屋で、彼女はいったい何をしているのか、ただ純粋に気になった。
「ん。なんだと思う?」 「……分からないです」 「分からなくていいよ」
会話として成り立っているのかさえ怪しい言葉の応酬。相変わらず朝風さんは掴みどころがない。 過去はまあ色々とアレだけれど、一応性格と性根は真面目であると自負している僕にとって、朝風さんの思考回路は少々難解である。 きっと彼女は僕と出会う前からずっと不思議で掴みどころのない人間として生きてきて、それを咎められることもなかったのだろう。もしくは咎められようとも、彼女の性質上何も気にしてこなかったのかもしれない。 澄まし顔から一転していつもの不敵な笑顔を浮かべ始めた朝風さんを見ながら、そんなことを考える。 にやにや、にやにや。彼女はいったい何を考えて、何を感じて、何をして、笑っているのだろう。 素直な瀬川さんやクールな花菱さんとは違う、説明し辛い独特の雰囲気を持つ彼女。 相手を傷つけないように悪く思われぬようにと生きてきた自分にとって、頭の中と性質を中々読ませてくれない彼女は、実のところ少々苦手な部類の人間であった。
「まあ、立ち話もなんだ。さ、ここにお座りよ、ハヤ太君」
朝風さんは白い着物の袖からこれまた白い腕をにょきりと伸ばし、目前の床を指差した。ここに座れと彼女は言う。 けれど僕はどうしてもその床に座れば最後、その白に溶け込んでしまうような気がして腰を下ろすことができなかった。 躊躇う僕を、朝風さんの赤い瞳が見据える。彼女は視線を目前に落とし、言葉ではなくその強い目で早く座れと訴える。しかし僕は動けない。 伏せられた彼女の目を上から眺めていると、彼女の睫毛が意外と長いことに気が付いた。長くて黒い睫がぴしゃりとおりてまたあがる。 まばたきの一つでさえも、この異様な白い空間では酷く映えて美しい。
「なんだ、見惚れてるのか」
目を伏せたまま、僕の顔も見ないまま、朝風さんが呟く。口元が僅かに弧を描いている。
「いや、その。そういうわけでは……」
無論見惚れていたわけなのだが、何故か認めたくなくて否定の言葉を紡ぎかける。 しかし、正面切って「見惚れていません」なんて言ってしまえば、きっと朝風さんだって傷ついてしまうはず。そんな心理が働いて、僕の言葉は非常に歯切れの悪いものとなった。 朝風さんはしどろもどろの言葉を聞きながら、くつくつと喉の奥で笑っている。ああ、きっと彼女は僕の心理を見抜いているのだ、と思った。
「まあ、見惚れていても仕方がない。なんたって君は私にゾッコンなのだからな」
にやにや、にやにや。笑う彼女のこの言葉は、果たして冗談なのか、本気なのか。彼女の本心が読めない。
「で、座らないのかね、ハヤ太君」 「いえ、なんだか座れなくて」 「へえ、そうなのか。変なの」 「すいません」 「謝らなくてもいいさ」
そう言って彼女は僕を見た。その顔に思わずどきりと心臓が跳ねた。 にやにやと不敵な笑顔を向けてくるのかと思いきや、彼女は年相応の女の子の笑顔を顔に張り付けていたのだ。いつぞやの彼女が見せた、不純なものは含まれていないと思われる可愛らしい微笑み。 純と不純を行き来する彼女の笑顔は、もしかしたら瀬川さん以上に種類が豊富なのではないだろうか。もしくは、笑顔を自由に操れるという女性の一種の計算高さか。 答えは見えない。ただ漠然と感じたのは、やはり読めぬ相手は苦手であるということだった。 彼女の微笑みはすぐに消えて、また目を伏せた。暫くの間、静寂が続いた。まばたきの度にユラユラと揺れる黒い睫を、只々見つめていた。 純粋な笑みも不敵な笑みも浮かべていない凛と澄ましたその顔は、彼女の本当の顔なのだろう、か。
「ああ、そういえば、ハヤ太君。お腹、減ってないか?」
何かを思いついたように、彼女は僕に向かって尋ねてくる。そう言えば、何も食べていないような気がする。
「そう言えば何も食べてないような気がします」 「気がする?」 「ええ、気がする」 「漠然としているな、まあ、仕方ないか。じゃあ、コレでも食べるかね?」
どこへやったかなぁ、ああ、ここだここだ。あれ? 違った? ああ、いやいや、ここにあった。と、彼女は独り言を繰り返す。 そして何もないはずの真っ白い空間から、これはまた真っ白な大福を取り出した朝風さんを見て、僕は今更ながらこれは夢なのだと気がついた。しかし気付いたところで僕はこの夢から覚める術を知らない。 にやにや、にやにや。朝風さんは不敵に笑いながら、僕の前に大福を置く。そして静かに口を開いた。
「夢だと気付いたね、ハヤ太君」 「ええ、やっと」 「それも嫌な夢だと思っているな」 「ええ、とても嫌な夢です」
夢と分かった以上、目の前の彼女に対してオブラートは必要ないように感じた。正直になった僕を見て、彼女はにやりとほくそ笑んだが、これもまた夢の一つ。僕の妄想なのである。そう、全ては僕の妄想なのだ。 もし、ここで差し出された大福を叩き潰しても、壁に思いっきり投げつけてグチャグチャにしても、現実世界の朝風さんが怒ることなんてない。 もしも、ここの朝風さんに酷いことを言っても、しても、目覚めれば全て終わりなのだ。 ここでは、何も恐れることはない。
「なあ、ハヤ太君。何やら不埒なことを考えてるだろう?」 「お見通しですか。ええ、そうでしょうね。これは僕の夢ですから」 「夢は欲望の根っこらしいぞ。その夢で私と出会うということは、つまるところやっぱり君は私に気があるんじゃないか?」 「そんなことないですよ」 「む、随分とはっきり否定するな。傷つくぞ」 「あなたが傷ついても、現実の朝風さんは何一つ傷つきませんから」 「ふむ。確かに。まあ、現実の私もそんなことで傷つくほど軟じゃあないがな」
そう言って朝風さんは「あっはっはっは」と高らかに笑って見せた。白い世界に彼女の笑い声だけが木霊する。笑っているのは声だけで、その表情は無である。 一通り笑い終えた彼女は、息を整えながら僕をじぃと見据えた。上下する白い肩と白い床の境界が、非常に曖昧である。彼女はじきに溶けるだろう。
「なあ、ハヤ太君。一つ賭けをしようじゃないか」
にやにや、にやにや、にやにや。つい先ほどまで無表情だった顔にいつもの不敵な笑みを浮かべて、彼女が言う。上目使いで僕をじぃぃと見つめてくる。
「もしも、ハヤ太君が夢から覚めて、ここでの出来事を覚えていたら、私は君に愛を囁いてやってもいいぞ」 「……結構です」 「おや、つれないな。だったら、もう一つおまけだ。このよくばり屋さんめ」
ケタケタと大口を開けて悪戯小僧のように朝風さんが笑う。もっと女性らしい微笑みを彼女は勉強したほうがいいと思う。例えば、そう、年相応の可愛らしい笑顔とか。
「もしもこの夢を覚えていたら、愛を囁いて、ついでに私の一番大切なものをハヤ太君にあげるよ」
面白い賭けだろう、と彼女は笑って、そのままどろりと真っ白の床に溶けていった。とぷん、と彼女の黒い髪が床に姿を消した時、僕はようやくゆっくりと目を閉じることができた。 掠れゆく意識の中、夢は欲望の根っこだ、という彼女の言葉をぼんやりと思い出した。
* * *
「ハヤ太くーん! おはよー!」
瀬川さんの元気な声が教室内に響き渡った。 五日連続でお嬢様を学校へ連れ出せなかった不甲斐なさを嘆いて、少々暗い気分になっていたが、彼女の一声のおかげで一気に気が晴れた。
「おはようございます、瀬川さん」
こちらに駆け寄ってくる瀬川さんに笑顔を向けて挨拶を返す。 僕の反応に満足したらしいいいんちょさんは、いつものようにクラスの皆への挨拶回りを始めた。彼女に笑顔を向けられた者はどんなに眠たげだろうと笑顔で返事を返している。 これがいいんちょさんの力というやつなのか、としみじみ感心していると、瀬川さんに一拍遅れて花菱さんと朝風さんが教室に入ってきた。 いつも通り二人とも非常に眠たそうな目をしている。朝風さんなんか、ほとんど寝ながら歩いているのではないだろうか。
「おはようございます、花菱さん、朝風さん」 「ああ……おはよう……」
まだ割としっかりしている花菱さんが、なんともローテンションな声で挨拶を返してくる。隣に立っている朝風さんは、今にも鼻提灯を膨らまさん勢いで眠たそうである。いや、多分半分寝ている。 しっかりしろ、と花菱さんが朝風さんの背中を叩く。しかし一向に覚醒しない彼女を見て、僕と花菱さんは顔を見合わせお互いに苦笑いを浮かべた。 そして起こすことを諦めたらしい花菱さんは、僕の席の前に朝風さんを置き去りにして颯爽と自分の席へと去って行ってしまった。 僕は戸惑いながらも、朝風さんを起こそうと彼女の腕を軽く突いた。しかし彼女はユラユラと揺れるばかり。目はすっかり閉じてしまっている。
「朝風さーん。起きてくださーい」
そう言いながら僕は彼女の隣に立ち、肩を優しく叩いた。すると彼女は意外とあっさり目を開き、僕の方をじぃと見つめてきた。 長身である彼女の視線は僕の視線の高さとほとんど変わらない。故に、彼女は怖いほど真っ直ぐに、僕の目を見据えてくる。 寝起きとは思えないその眼光に、何故だか見覚えがあるような気がした。黒くて長い睫が、まばたきの度に揺れるその光景を、どこかで。
「なー、ハヤ太君」
寝起き特有の間延びした声で彼女が名前を呼ぶ。 そして口元だけを少し歪ませながら、小さな声で一つ問いかけてきた。
「夢を、覚えてるか?」
意味が分からず、首を傾げる。 朝風さんは一言「そうか」と言った後、にやりと笑った。
「今回も、私の勝ちだな。ハヤ太君」
そう満足げに言い残して去っていく朝風さんの背中を見送りながら、僕は彼女の言う夢とやらを思い出そうと記憶を手繰る。しかし夢は見ているはずなのにほんの一欠けらさえ思い出せない。 風景も内容も人物も、確かに何かを見ていたはずなのに、何一つとしてはっきりとしない。それが何だかもどかしくて、無性に悔しくて。 忘れてはいけなかったのに。覚えていなくてはいけなかったのに。そんな後悔にも似たすっきりとしない感情が心の内に広がる。 次こそは覚えていよう。そんな誓いを心の中で立ててみたけれど、きっと忘れてしまうだろう。何故だか、そんな気がした。
にやにや、にやにや。 にやにや、にやにや。 彼女の不敵な笑みだけが、妙に脳裏にこびり付いていた。
【起きたら必ず忘れる夢】
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