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対象スレッド 件名: 青春時代に戻りたい夢見がちな二人。
名前: 餅ぬ。
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青春時代に戻りたい夢見がちな二人。
日時: 2013/01/15 22:20
名前: 餅ぬ。

 駅前付近の裏路地にひっそりと佇む小さなカフェがある。木製の古ぼけた看板に店名は書かれておらず、細かな薔薇の彫刻だけが施されていた。
 その店内は色とりどりの薔薇が煩くない程度に飾られており、頭上にある大きな天窓にはオレンジ色の薔薇が描かれている。
 たった一枚の天窓から差し込むオレンジ色の光は晴れの日ならばいつだって薄暗い店内の一角を照らし出し、東から西へと移動しながらその場を黄昏色に染め上げるのだ。
 僕は、この夕暮れのカフェが気に入っていた。週に一度紅茶の葉を仕入れる為に訪れては、黄昏色に染まった席を陣取って、オレンジ色の薔薇を見上げながら苦い珈琲を飲むのが好きだった。
 毎週木曜の昼下がりは、僕はいつも彼女と共に夕暮れの中に居た。



 ぼぉん、ぼぉん、と店の中央の柱に掛けられている古時計が鳴いた。目をやると、針は二時ちょうどを指している。そろそろ彼女が来るころだと思うと、僅かばかり胸が高鳴った。
 週に一度、木曜日、僕と彼女はたった一、二時間だけ恋人同士になるのだ。その短くも甘ったるい時間は、まるで青春時代そのもののようで。
 時計が鳴り終えて、店の中が再び静寂に包まれた。平日の昼間だから、僕以外の客はいない。年老いたマスターは、いつものようにカウンターの向こうでうつらうつらと舟を漕いでいる。
 音楽一つかかっていないカフェの中で、単調な時計の針の音だけが響いている。微かに耳に残る時計の鳴き声の残響が、息もできないような静寂の中で唯一のBGMだった。
 柔らかな真綿で緩々と首を絞められるような心地よくも苦しいこの空間で、僕はひたすら彼女を待った。この心地よさと苦しさは、きっと僕の罪悪感である。



 二十分ほど経ったころ、ちりりんと鈴の音と共にカフェの扉が開いた。
 うたた寝をしていたマスターがびくりと肩を震わせて飛び起きた後、入口に向けてニコリと笑みを作る。どこか人懐っこいマスターの笑みを見て、僕は彼女が来たのだと確信した。
 コツコツとよく響くヒールの音が、こちらへ近づいてくる。振り返ると、そこには少し気まずそうに微笑むスーツ姿の彼女がいた。

「ハヤテ君、ごめんね。遅くなっちゃった」
「大丈夫ですよ、泉さん」

 仕事が終わらなくて、とため息交じりに愚痴を零しながら、彼女は僕の正面の席に腰を下ろした。少々疲れているのか、彼女らしくもなく表情が暗い。
 ふう、と彼女が一息ついたと同時に、マスターが注文を取りに来た。いつものように彼女は僕と同じ珈琲を頼む。苦いものは苦手なの、と語っていた彼女の舌は、いつの間にか随分と大人になっていた。
 ここに来るまでに乱れた髪をせっせと直す彼女を見つめる。少し子供じみたヘアゴムで髪を二つに結っていた可愛らしい女の子が、その髪を肩に落としたのはいつのことだったのだろうか。
 彼女の癖一つないサラリとした髪は、今ではもう背中まで伸びている。彼女の無邪気な笑顔は昔と何一つ変わっていないけれど、笑うたびにしなやかに揺れる長髪は、僕の知らない彼女の気品を感じさせた。
 高校を卒業して八年になる。一年と少し前、偶然このカフェで彼女と出会ったときは一瞬誰だか分からなかった。けれど曇り一つない眩しいその笑顔だけは、僕の知る瀬川泉さんそのものだった。
 青春の懐かしさに引き寄せられるように、僕と彼女は惹かれ合った。それは馬鹿げているようで、けれど運命的とも言える出逢いだった。と、僕は思う。偶然出会った、目と目が合った、たったそれだけで僕たちは恋人のような関係になったのだ。
 一年以上の付き合いの中で、僕と彼女はキスさえしていない。手を握り合うのがやっとの関係。そのもどかしさは、遠い昔に忘れた青春に香りに溢れていた。それが堪らなく幸せだった。
 つまるところ、僕も彼女も縋っていたのだ。人生で一番光り輝いていたであろうあの時代の面影に。
 予期せず再び訪れた青春を、大人になり果てた二人は、何もかもを忘れたふりをして、ひたすら追い求めていたのだ。

「ねえ、ハヤテ君」
「なんですか、泉さん」
「……今日ね、またお仕事でミスして怒られちゃったよ」
「また例の部長さんですか?」
「そうそう。相変わらずお説教が長いのなんのって」

 他愛もない会話さえ、酷く愛おしい。黄昏色に染まるカフェの中でただ会話をしているだけで、放課後の教室で彼女の仕事を手伝っていたあの日々を思い出す。

「昔みたいに手伝ってあげたいんですけど、ね」
「……にははっ。そうだねぇ、手伝ってほしいよ。……うん、昔みたいに」

 そう消え入りそうな声で呟いて、彼女は視線を落とした。明らかにいつもと違う彼女の様子に、心の奥がざわめく。
 俯いた彼女は一言も言葉を発そうとしなかった。伏せられた長い睫に遮られ、彼女の瞳を覗き込むことは出来ない。泣いているのかさえ分からなくて、声一つかけられずにいた。
 かつての僕ならば、きっと衝動に任せて彼女の手をそっと握るなり、隣に座って肩を抱き寄せるなり出来たのだろう。けれど、今となってはそれさえ叶わない。
 昔とは、何もかもが違うのだ。

「――あのね」

 黙り込んでいた彼女が、俯いたまま小さな声で話し始めた、その瞬間。

「お待たせしましたぁ」

 間延びしたマスターの声が彼女の話に割り込んだ。彼に悪気はないのだろうけど、その間の悪さに少しばかり苦笑いが浮かぶ。それは彼女も同じのようで、珈琲を置くマスターに向かって僅かに苦笑している。
 困った笑みを浮かべながら彼女は「ありがとう」と彼に小さく礼を言う。そしていつものように角砂糖二つとたっぷりのミルクを珈琲に入れて、スプーンでぐるりぐるりとかき混ぜ始めた。
 白と黒のマーブル模様がカップの中に浮かび上がる。少しずつ溶け合っていくそれを、二人して眺めていた。

「――明日、」

 彼女が再び口を開く。しかし言葉は中々続かない。少しだけ視線を上げると、震える彼女の唇が見えた。下唇を軽く噛み占めるその姿に、彼女の覚悟を見た気がした。
 視線をカップに戻すと、白と黒はすっかり混ざり合っていた。まろやかな白みを帯びた珈琲は、まだ微かにカップの中で回っている。
 その余韻が沈んだころ、彼女はカップを口へと運んだ。それにつられて僕の視線も自然と彼女へと向いた。こくり、と彼女の喉が一つ鳴る。
 そして、深い深い息を吐いた後、彼女は言った。


「明日から、もう、会えない」


 途切れ途切れにそう告げて、彼女は再びカップに口をつけた。こくり、こくり、とゆっくりと動く彼女の白い喉を眺めながら、僕は一拍遅れて彼女の言葉の意味を理解した。
 週に一度しか会わない関係なのに、彼女はわざわざ「明日から」と言った。彼女が意識してそう言ったのかは分からないが、僕には確かに「もう、二度と会えない」と彼女が告げたように聞こえた。
 どうして、とも思ったし、やっぱり、とも思った。けれど頭は嫌に冷静でありながら、心がすっかり動揺していた僕の口からは、どちらの言葉も出てくれない。
 しかし、沈黙は肯定である。きっと彼女はそうとらえてくれるだろうと、どこかで期待していた。

 これは仕方のないことなのだ。
 だって、いくら目を背けたかって僕たちはいい大人だし、どんなに望んだって青春時代になんて戻れない。思い出に縋って生きていけるだなんて、僕も彼女も思ってやしない。
 ――それに、何より。
 ――僕にも、彼女にも、かつてはなかった大切なものが他にあるのだ。



「私ね、結婚が決まったの」

 静かな声だった。それは二十五歳になった大人の女性の落ち着いた声で、僕のよく知る高校生の瀬川泉とは似ても似つかぬもので。

「……それは、おめでとうございます」

 その低く穏やかな声は、きっと彼女の知らない二十五歳になった大人の僕の声だ。
 悲しくて泣きたくて仕方のない心を押し潰して、真っ先に社交辞令が口を飛び出るようになった僕は、きっともう昔みたいに優しくなんてない。

「……うん。ありがとう、ハヤテ君」

 社交辞令に笑顔を向ける彼女も、きっと。
 いつまでも、真っ白ではいられない。彼女の純粋な笑顔は、僕の知らないところで少しずつくすんでいったのだ。



 一年と少し前。
 僕がカフェに通い始めてひと月が経ったころ、偶然やってきた彼女と目が合って、微かに残る懐かしい面影に思わず微笑みかけて、そしたら彼女も昔のままの笑顔で返してくれて。
 気が付けば待ち合わせをしたわけでもないのに、毎週一緒に珈琲を啜るようになって。いつの間にか、告白もしていないのに、キスもしていないのに、愛を囁くようになって。
 ただ触れることさえも照れくさくて。本当はキスだって、それ以上のことだって経験しているのに、いつも僕たち二人はうぶを気取って、夕暮れのカフェの中で幼い顔で笑い合っていた。
 
 気付いていないわけがなかった。
 彼女が昔みたいに笑えないことも、僕が昔みたいに無償の優しさを振りまけないことも。
 彼女には結婚を約束した彼氏がいて、僕には主以上の存在になった大切な人がいることも。
 昔とは何もかもが違うことに気付きながら、僕らは何も知らない少年少女のように子供じみた恋人ごっこを繰り返してきた。気づかないふりは、僕も彼女も得意だった。
 大切な人がいながら発展することのない逢瀬を重ねてきた僕たちは、まさしく酷く滑稽で汚い大人そのものだ。青春時代を演じながら、いつも心のどこかで汚い自分を嘲笑っていた。

 そんな関係が、この先ずっと続くわけがなかった。
 仕方ない。この別れは、どうしようもなく、仕方のないことなのだ。しかし、そうだと分かっていても、視界が滲む。
 見せ掛けだけの純情と過ぎ去った思い出だけで構成された薄っぺらな関係の中で、ただ一つ確かに存在していたのは、彼女への淡い恋心だった。
 僕は、彼女を愛していた。



「ハヤテ君、これ……」

 泣きたい気持ちを悟られないよう俯いていると、彼女が何かを僕に差し出した。視線を上げて、白い掌に乗っているものを確かめる。
 淡いオレンジ色の小さな薔薇が付いた可愛らしいネックレスが、彼女の掌の上にちょこんと乗っている。それは間違いなく、数か月前の彼女の誕生日に渡したプレゼントだった。
 ああ、そういえば。と今更気づく。僕と会うとき、彼女の首にこのネックレスが下がっていない時なんてなかった。けれど、今日は。

「……今まで、ありがとう。本当に、……ごめん、ね」

 微かに震える掌を僕に寄せながら、彼女はすんと鼻を啜った。痛々しく伏せられた目に、涙は浮かんでいない。もう簡単には泣けなくなった彼女は、僕よりもずっと先に大人になってしまっていた。
 零れそうな涙を懸命に堪えて、僕は彼女の掌に乗るネックレスを握りしめた。じゃり、と手の中で音がする。きっと絡まってしまっただろうが、そんなことは気にも留めず、それをポケットの中に放り込んだ。
 この可愛らしいオレンジ色の薔薇は、もう二度と彼女の首に咲くことはない。

「こちらこそ、今まで、ありがとうございました」

 彼女に負けないように気丈振る僕は、なんて滑稽なのだろう。

「泉さん」

 もう呼ぶことはないであろう彼女の名前を口にする。

「……貴女の笑顔、大好きでした」

 流れる時の中で煤けて、美しい白でなくなったとしても、かつての純粋の影を残した彼女の笑顔が大好きだった。
 この愛おしい気持ちだけは、嘘ではない。

「……私も、そういう優しいとこ、大好きだったよ」

 そう言って彼女は、長い髪を上品に揺らして微笑んだ。涙一つ浮かんでいない三日月形に細められた彼女の目は、僕の愛したそれそのものだった。
 直視できなくなって思わず下を向く。堪えていた涙が手の甲にぽたりと垂れたのが虚しくて、乱暴にズボンにこすりつけた。

「……さようなら」
「うん、さようなら。……ハヤテ君」

 きっと最後になる僕の名前を呼んで、彼女は席を立った。机の上には一人分の珈琲代がきちんと置かれている。
 もう彼女はこのカフェに来ることはないのだろうな、と思いながらすっかり冷たくなった珈琲を啜る。しょっぱい。
 ぼぉん、と古時計が三回泣いた。よく響く低い音が空っぽの身体の中で反響する。すん、と鼻を啜ったら、甘い薔薇の香りと珈琲の匂いがした。
 もう僕もここには来れないのだろうな、とぼんやり霞んだ頭で夢想する。青春の放課後の光は、一人で浴びるには眩しすぎる。



 天窓に咲くオレンジ色の薔薇は相変わらず美しく笑っている。しかしよく見るとその花弁は、長い時間に晒されて、煤けてくすんでいた。
 けれど、それでもなお、美しかった。




【さよならカフェ】