群青(紅クロス) 第伍話『ひとつ屋根の下』更新 |
- 日時: 2015/02/28 00:29
- 名前: S●NY
- >>0 第一話『揉め事処理屋』
>>3 第二話『五月雨荘』
>>4 第三話『麗しの姫君』
>>5 第四話『白皇学院』
>>6 第伍話『ひとつ屋根の下』
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その日西沢歩は、なかなか布団から出てこようとはしなかった。 母が下から大きな声で自分を呼ぶ声が何度か聞こえたかと思うと、ドアが半開きになって、「ねーちゃん、起きろってさ」との、非常に面倒くさそうな、投げやりな弟の声が聞こえてくる。 それでも布団に包まったまま丸くなっていると、ズンズンという階段を上がる大きな音が下から迫ってきた。 しばらくして大きな音を立ててドアが開かれる、間髪いれずに頭から被った布団を乱暴に引っ剥がされた。 「あんたっ!いつまで寝てるつもりなのっ!?遅刻するわよっ!!」 耳が痛いほどに響く、母の声。非常に不快な顔をしたまま歩は、呻くような声で母を見上げる。
「……お腹いたい。 今日は学校……」 「休むなんて言わせないからね」
有無を言わさぬ言動に、はぁ……と大きくため息をついた。 今日は一歩も外に出たくない。 いや、今日だけじゃない、しばらくの間。ほとぼりが冷めるまでは外を出歩きたくは無かった。 しかし、我が家の住人はそのことを許さないだろう。 いっそのこと、ドアに本棚や机でバリケードを作って、引きこもってしまおうか。 耳を塞いで布団を被って、外から聞こえるであろう出て来なさいという、母の叫びも無視し続けて……。 そこまで考えて、歩は馬鹿らしいと思い制服に着替え始めた。 そんなことをする勇気も度胸も存在しないのだ、自分には。 だからこんな目に会っているのだ。
『第一話 揉め事処理屋』
事の起こりは1週間ほど前にさかのぼる。 友達の家に泊まりに行った時のことである。 その子は隣のクラスの子で、それまで直接の面識は無かったものの。 歩の友達の中学時代の同級生ということで、合同授業の時間に意気投合した。 数回顔を合わせただけの仲だったが、彼女は家に来ることを別に構わないと快く迎え入れてくれた。 彼女はフランクな性格ではあったが、言い方を変えればいい加減。 そんな性格に加えて、片親な事も相まってか。夜の街に遊びにでることも彼女にとっては普通なことといえるほどに、危険なことにも平気で顔を突っ込んでいたようだった。 しかし、そういった危険というのは時として、歩のような普通の高校生には甘美な刺激として眼に映る。 自分とは別な怪しくて煌びやかな彼女にほんの少し憧れを抱いてしまったのは、彼女だけに限ったことではないのだろう。 彼女が深夜、遊びに行こうと歩を誘ったとき、親に対するささやかな反抗心と、申し訳ないと思う罪悪感とに責められながらも、そこから漂う雰囲気にふらふらと誘われるように顎をゆっくり引いてしまったのだった。
結論から言えば行かなければよかったと、そう激しく後悔した。 廃れたバーに連れ込まれた歩たちは、そこで衝撃的なものを目にする。 飴玉の袋に入れられた『何か』を交換する男たち。 酒に溺れる飲んだくれ。 顔中をピアスだらけにした、だらしない顔の男。 バーの一角に座らされた彼女達は、『何か』の入った飲み物を勧められた。 それを口につけた瞬間、あまりの不味さに歩は吐き出してしまった。 頭がぐるぐる回り、一瞬の浮遊感、続く嘔吐。 ニヤニヤとした下卑た笑いが脳裏を過ぎる。 どのくらい、時間が経ったのだろう。 気がつくと、一緒に来た友達がそろそろ帰ろうと言ってくる。 彼女の服が乱れていることにも、酔ったような頭では思考が追いつかない。 ああ、コレはお酒だったのかな。思えば、太ももをしきりになでられていた気もする。 まるで値踏みするような。 そう思いながら、渡された伝票を見て、気持ちのいい浮遊感が一瞬で消し飛んだのが分かった。 「なっ!…え、こ…これ」
信じられないほどの額。 自分が丸々一ヶ月バイトしても払えないであろう数字がそこにはあった。 「あぁ?姉ちゃん払えないか?それなら別にいま払ってもらわなくてもいいんだ」 一瞬の安堵。続けられた言葉に、歩は血の気が引くのを感じた。 「二週間以内に金を用意してくれや。そのとき友達を呼んで来たら、まぁ半額にしてやる」
眉に皴が寄る。 二週間以内?そんなの、無理に決まってるんじゃないかな。 それに、友達って……。 「それでも返せ無いんだってンなら…なぁ?」 「えっ、…い、いやっやめてくださいっ!」
いきなりスカートの中に手を入れられた。 歩は、その気持ち悪さと不快感にその手を払いのける。 体を抱きしめ、後退った。
「お風呂にでも沈んでもらおうかな」 男の顔を見て、吐き気と頭痛に襲われる。 くらくらと眩暈もした。 一瞬殺されるのかと思った。自分はここで死ぬのかと。 でも、目の前の男の酷く下卑た嘲笑と、周りの男たちの下種な視線が本能的に違うと告げていた。 自分の身体を隠すように、掻き抱いて小さくなった。 自分の視界も隠すように。 この光景を覆い隠すように。
今日は、その約束の日だった。 お金は、溜まらなかった。無理だった。半額にも届かなかった。 親から盗もうかとも思ったけれど、金庫に入れられたお金は取り出すことも出来なかった。 ……どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
気がつくと手が震えている。 いつの間にか腕を体にしがみつけている。 逃げよう。 絶対に見つからないように。 あそこに近づかなければ、いいのだ。 逃げ切れば。 そうすれば、きっといつか諦めてくれる。 理由が理由なだけに、親にも先生にも相談できない。 友達に話しても、すぐに流されてしまう。 真剣に取り合ってくれない。それは、まるで意図的に避けているようでもある。 当たり前だ、トラブルは避けるもの。自ら進んでトラブルに関わろうとするものなどいない。 ましてや、目の前にそのようなトラブルが待って居ようものなら。それを持っている人間が居るのなら、尚の事。 歩はその手の話をするときだけ、周りから無視された。 しだいに、歩も学校でこの話題を口にすることは止めた。 放課後。 歩は一直線に家に向かっていた。 自転車のペダルに体重を乗せるたび、ぎぃぎぃという悲鳴が聞こえてくる。 それは自転車の軋む音かも知れないし、それとも彼女の口から漏れている悲鳴とも嗚咽とも付かない音なのかも知れなかった。 頬を伝う雫は、汗なのか、涙なのか。 少女、西沢歩は、逃げていた。 すぐに帰って部屋に籠もって。次の日も次の日も次の日も。そうやって逃げればいいんだ。 大丈夫。 逃げ切れる。 そうしていれば、きっと自分の事なんて相手も忘れるだろう。 そうすれば、自分は大丈夫かもしれない。 そう思って、一心不乱に歩は走 「そんなに急いでどこに行くの?」 「!?」
腕を掴まれた。 そして、その声は聞き覚えがあった。 あの店で。 「逃げる子多いんだよね。逃げられるとでも思ってンのかね。君を連れてきた子は君と同じ高校なのにさ」 「……あ……っ」
そうだった。 自分がなぜあの場所に行ったのか、それはあの女の子に連れてこられたからであり。 その少女が連れ込んだ理由は、『半額』のためだったからに他ならない。 もちろん、彼女は潮見高校の生徒だったのだし、学校で待ち伏せされている可能性など十分にあったのだ。 「あ…、…ぁ……」
ガチガチと歯が鳴る。 恐怖で足が動かない。 自分は、自分は……。 「……きゃぁっ!」 窓ガラスにスモークが掛けられた黒い車に押し込められる。 どうしよう、どうしよう、どうしよう。 泣きながら、混乱した頭を回転させる。 車内で組み伏せられて、ガムテープでと手足を固定された。 「約束破って逃げようとする奴は……お仕置きが必要かぁ?」
男は、ゾッとするような笑みを浮かべる。 自分がどうなるのか、これからどうなるのか。恐ろしくて、怖くて、考えられない。 「……ゆ…ゆ…る……し……くだ………さ」 「ああ!?」
ひっ、と悲鳴を上げて歩は丸くなる。 頭を抱えるが、むりやり顔を男のほうに向けさせられると、歩の首を締め上げた。 息を強制的に止められた彼女は、バタバタと縛られた手足を暴れさせながら、苦しげに舌を伸ばす。 男はそれを見て、ブサイクな顔だと笑った。 「女ってのはみんなそうだ。痛い目みないと、わからない。傷つかないと、理解しない」
男の手が首から離れると、歩は激しく咳き込んだ。 その様子をみて、男は何を思ったのか右手を大きく振りかぶると。 バキィッと歩の顎に裏拳を叩きつけた。 「いぎぃっ!!……ひぃ………ぅ…ぃぃ」
痛い!痛い痛い痛い痛い!!痛いぃ!! 余りの痛みに目の前がぼんやり霞む。殴られた箇所がじぃんと熱くなった。 涙が出た。嗚咽が洩れた。痛くて熱くて苦しくて悲しくて辛くて泣きたくて耐えられなくて逃げられなくて逆らえなくて。 何度も、何度も。 歩の顔に拳が振り下ろされる。
―――たすけて
「……いだいぃ……っいだぃぃいい!!」
―――たすけて
何度も、何度も、何度も、何度も。 「やべでえっ……っや……べでぐだざっ」
自分はもう駄目なのだろう。このままこの男に拉致され、どこかに閉じ込められるのだろう。
―――タスケテ 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。 「いやだあああ!ああああごぷぅあ!!あああべぇああ!!」 そして壊れるのだ。わたしは。
―――タス
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
―――嫌だ。そんなの嫌だ。絶対に。 「嫌だぁ!!あああああああああああああああああ、嫌だ、離れて!!嫌だ!あんたなんか!あんたなんかっ!!」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。 「たす…たす、けて………」
誰でもいい。何でもいい。どうか。誰か。味方なんていない車内に、少女の声が木霊する。 「たすけてぇっ!!」
―――助けます
そんな声が、どこからか聞こえた気がした。 どこからかは、分からない。 それは、信じられないほど暖かくて。やさしくて。 ゆがみ始めた歩の中の何かが、元に戻っていく。 ―――そのとき。 ばりぃと車の窓ガラスが割れる音が、車内に響いた。 運転手の顔面に、『車内に投げ込まれたもの』が直撃する。 と同時に、割れた正面の窓から、『何か』が車内に突入してきた。 本当に一瞬の出来事。 歩は、その『何か』抱きしめられて。 再び、バリィッンという甲高い音が聞こえたときには。
真っ青な空を眺めていた。 それとともに感じる、浮遊感。 それは一瞬の事で、すぐに『歩たち』は引力に引き寄せられ、地面へと。 ズザザーッとアスファルトの擦れる音がする。 出たの?外に?なんで?なにが起こったの? 混乱している内に、首を振り回すと。制御を失った黒い車が、電柱に突っ込んだところであった。 やっぱり、外に出れた。出れたんだ。……でも、なんで? 歩は、そこで始めて、車から放り出されたのに痛みのないことに気がつく。 そして、誰かにギュッ と抱きしめられている事も。 「大丈夫。ですか?」 「…ぇ」
頭の上から声が降ってくる。 抱きしめられて、倒れたままだから相手の顔は見えないけれど、とても安心する声だと思った。 「まずは奪還。さて」
おそらく、声色から察するに、私と同じ年くらいの少年。 その少年が、優しく私から身を離すと。 すくっと立ち上がった。 「…ぁ」
綺麗な青い髪がとても印象的だった。 中世的な顔立ちも、とても綺麗だった。 少年は、ぼろぼろの制服を着て。しかし、何事も無かったかのように、立っている。 「んだ、てめぇ……。……なんだ、てめぇ!!ぶっ殺されてぇかぁ!!?あぁあ、歩はどこだぁっ!?」
ひっ、と少女はその声に小さく悲鳴を漏らす。 先ほど歩に暴力をふるっていた男が、車から這いずり出てきた。 顔は血に染まり、目はこちらを向いていない。 異様だった。 そして、その男がそれでも自分を探している事に、歩は信じられないほどの恐怖を覚えた。 「僕の後ろに……」
その時、少年は優しく歩に語り掛ける。 恐怖がスゥっと消えてゆくのを、歩は感じた。不思議な感覚。 「なんだ……?てめぇ……、誰だてめぇ!!」
男はそう吼えると、長さ30センチはあるであろうナイフを、見せ付けるように腰の後ろから引き抜く。 刃物をチラつかせ威圧してきた男に、少年は間髪いれずに答えた。 「綾崎ハヤテ」
刃物を前にすれば、誰でも動きは鈍るもの。しかし、ハヤテと名乗った少年は怯まない。 「揉め事処理屋です」 「わけわかんねぇよぉああああああああああああ」
名乗ったハヤテの言葉も男の雄たけびでかき消される。 男はそのまま、まっすぐナイフを持って突っ込んできた。 そして、二人が交差する瞬間――。 綾崎ハヤテは、突き出された刃先を難なく手の甲で逸らす。勢いをつけた男はしかし、止まらない。 ハヤテは男を自分に引き寄せると、そのまま股間に目掛けて、蹴り上げた。 よほど的確に当たったのか。たったそれだけで男の動きは止まり、ナイフを落とす。 ぷしゅっ という空気の抜けるような音が聞こえた。 股間を両手で押さえたままそのまま数歩、前へ進む。 しかし、男はハヤテにも歩にもたどり着けず。そのままバタリと倒れこんだ。 歩が、おそるおそる近づいてみると、男は泡を吹いたまま完全に失神している。 ……す、すごい。 歩は今、自分の目の前で繰り広げられた刹那の死闘に、口をポッカリと開けてしまう。 圧倒的だった。糸の切れた人形のようにばたりと倒れた男を思い出し、拳銃で打ち抜かれた人はこのように倒れるのだろうか、と思った。 ……あれ、そういえば男の子はどこに? 「ふぅ。まったく。……って、あぁ……鞄が、ぼろぼろですね」
歩が辺りを見回すと、そんなハヤテの声が今度は車の中から聞こえてきた。 男を失神させた後、綾崎ハヤテはすぐに車の中に入って行ったのだ。 しばらくして、運転席側のドアが蹴破られる。 「……あっ」
そして車から出てきたハヤテに歩は目を見張った。 たいして体力のありそうには見えない華奢な体の少年は、軽々と自分より大きな男を抱えて出てきたのである。 左手には、初めに投げ込まれたであろう学生鞄が。 ハヤテは、車内にあったガムテープで、男二人をぐるぐると縛り上げてゆく。 「ンよしっ……と。はい、まぁとりあえずこんな感じで」 「あ、あの、終わった……の?」 「まだ仕上げが残ってますけどね」
仕上げ?と頭の中に疑問符を浮かべる歩。 そんな彼女に、ほら、来ましたよ。とハヤテは後ろを指刺した。 歩がそちらを向くと、数人の男たちが近づいてくるところだった。 いずれも人相が悪く、黒い服を着ている。 歩は驚いて、ハヤテに警戒の視線を向ける。しかし、苦笑で返された。 「驚かせてスイマセン。えーっと、依頼は身の安全の確保。でしたよね」 「……え?」 「そのためにはこの男達をどうにかしなくちゃならない。そこで協力してくださる方達です。話はもうついてますから、ご安心を」
ハヤテは先ほど襲い掛かってきた男の首筋に指を当て、ぐっと押し込んだ。 たちまち気絶していた男は目を覚ます。自分の状況を確認した後、男は暴れるかと思ったが意外にもおとなしかった。 「……ゆるさねぇぞ」
歩を見つめたまま、男は怨恨を込めて言葉を吐く。 「絶対にゆるさねぇ……。いつか、壊してやる。引ん剥いて。辱めて。いつか絶対にお前を壊してやる」
次に男はハヤテを見つめ、嘲笑を浮かべた。 「俺を、どうする?警察か?リンチか?何をしても、無駄だ。お前の事は忘れない。俺は、しつこいぞ。何年かかっても、追い詰めて、後悔させてやる。絶対に」
男の言葉が本気だと分かり、歩は震える。 いずれ訪れるであろう、自分とハヤテの破滅を予感したが、ハヤテは特に気にしたふうもなく告げた。 「田淵薫。前科二犯。半年前に出所したばかり、以前起こした二つの事件は、いずれも女子暴行と監禁。そして麻薬の売買。今の時代。写真一つあればどこまでも調べられるね」
男は答えなかったが、ハヤテは続ける。
「ふぅん。ああ、そうそう。ところで、アンタ。暑いのは平気?」 「あ……?」 「向こうは暑いし、大変でしょうねぇと思ってね」
ハヤテはすぐ傍まで来ていた黒服の男たちに指示を出す。 男達は田淵の口に猿轡を噛ませると、そのまま数人で担ぎ上げた。 いったいどうするつもりだ、と困惑する田淵にハヤテは親切に教えてやる事にした。 「とある外国でダムの建設工事がある。ところが作業員が中々集まらないらしくて。娯楽施設とか何もない場所で。工期は最低でも十年。そのあとでほかの地区の補完工事が何箇所かあって、一度日本を離れたら二十年は帰って来れないらしいし、希望者が少ないのも無理は無い。で、その筋の業者さんはやる気のある人材を欲しがってまして、僕はあなたを推薦した。こんなみみっちい犯罪を何度も犯すあたり相当根性あるでしょう?体力も十分。まぁ頑張ってください。貯金もできるし、現地の人は感謝してますよ」
田淵は顔を真っ青にさせた。自分を担ぐ男達の風貌から、冗談ではないことが分かったのだろう。 これから数十年、自分は労働者として消費される。いや、生き延びられるかも分からない。 この種の工事で、しかも裏企業が人を集めるものは、過酷な労働のすえ使い捨てられるのが普通。 事実上の死刑宣告に他ならない。 田淵は今頃になって命乞いしたが、猿轡のせいで誰の耳にも何を言っているのか分からない。 お達者でぇ、と軽く手を振り送り出すハヤテ。暴れる田淵は車に押し込められ―――消えていった。 そして静寂。
全てが終わったあとも、歩はしばらく呆然としていた。 これで、終わった……の? 「あ、あの、今の話……。本当なのかな?」 「本当ですよ」
ハヤテの頼んだ業者は、日本にいられなくなった犯罪者を多く雇い入れるところで、一度雇った人間は工事が終わるまで絶対に逃がさない。ということ。 電柱にぶつかったままの車は、あとで知り合いの業者がレッカーで持って行く。 警察にはもうすでに話をつけてあるので、余計な詮索など受ける事はないだろうということ。 あの寂れたバーは、裏社会でも隠れた麻薬取引の場で。周辺の裏業者としても疎ましく思っていたので、今回の件で潰した、という事を説明した。 「まぁ、あの男。万が一にも脱走するようなことがあれば、業者から連絡が来る手はずになってます。そうなったら僕が必ず捕まえて、今度は絶海の孤島にでも放置してやりますよ」
あははは、と気楽に笑った少年はどこまで本気だったのだろう。 歩はもう一度、彼を見つめなおす。 彼はこう言った。『揉め事処理屋です』と。 揉め事処理屋。 歩は以前、その名前を耳にしたことがある。 高校の友達に相談しても、だれも真面目に取り合ってはくれなかった。 その中でたった一人だけ、相談に乗ってくれた男の子がいた。 彼は言った。多少危険な仕事も請け負ってくれる。いわゆる揉め事処理屋がいるという話。 そんな正義の味方のようなもの本当に存在するのか、激しく疑問に思った歩だったが、藁も掴む思いでその話に飛びついた。 揉め事処理屋との仲介役だという、その男の子に依頼を申し込んだのが数日前。 しかし、そんな都市伝説のような話。 依頼したことなど半ば忘れていたのに、まさかこれほどまでに完璧に処置してみせるとは。 「では、依頼を完了しましたので料金の方を頂きます」 「ありがとう……っ!」
歩は余りの嬉しさにハヤテを抱きしめそうになったが、それを何とか堪え、自分の鞄の中から財布を。 「……あ」
そして気付く。鞄が無い。 先ほど、誘拐された際、道端に落としてきてしまったのだろう。 「え、えと……そのぅ」
どうしたものかと頭を抱える。 まずい、これはまずいんじゃないかな。 脳裏に浮かぶのは、先ほどのハヤテの姿。非常にかっこよかった。じゃなくて、これは怒らせては大変だと思った。 うぅ〜、と唸る歩をみてハヤテはくすっと笑って、歩の頭にそっと手を置く。 「と、思いましたが。ギリギリのタイミングでしたので、今回は無料とさせていただきます」 「……ふぅえ?」 「本当に申し訳ありませんでした。こんなに腫れてしまって、可愛いお顔が台無しですよ」 「ぇえ!!」
そう言って、頬にぬらしたハンカチを当てられる。 本当にいつの間にそんなものを用意したのか、上気した頭でそんなことを考える余裕は歩には無かった。 「では、失礼しますね」 「あ、えと……」
まって、という前に少年はスタスタと歩いていってしまう。 もう少しお話をしたい。歩はそう思って彼の後を追ったが、曲がり角の向こうには、彼の姿はすでに無かった。 消えてしまった。 本当に、まるで正義の味方みたいに。 頬に当てられたハンカチ。それを見て、返さなきゃと思った。 また、彼に会いたい。と、そう思った。 「お金も、きちんと払わないといけないし」
彼の着ていた制服。 あれは都内でも有名な進学校、白皇学園のものだった。 来た道を振り返ってみる。ちょうど、車がレッカーの上に乗せられているところだった。 それを見たら、急に体の力が抜けて、腰を落とした。 静かな風が、頬を撫でる。 それを感じていると、つい先ほど死を覚悟したことなど、遠い過去のように思えてくる。 この町はたしかに怖い。誰もが嘘はつく、法を無視する、蹴落としたくて、誰もが人の顔色を疑っている。誰もが誰もを出し抜こうとしている。 でも、この町にもあった。恐ろしい悪意があっても、それに負けない力があると知ったのだ。 家に帰ったら、母親に謝ろうと思う。 正直に話して、そして無事であったことを言おうと思う。 それはとても怖い事だけれど。もう私は逃げないと誓ったから。
―――彼のように。
まぁ、とりあえずは。 「あの揉め事処理屋さんについて、詳しく聞きたいかな。宗谷くん」
彼を紹介してくれた友人に、洗いざらい白状してもらおうと思っている。
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