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- 日時: 2014/10/03 16:49
- 名前: 春樹咲良
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16時18分
「どうやったら自党の候補者の名前を間違うんですか。それも七回ですよ、七回」 怒る気すら失せたというような呆れ声で、明智が美希に言う。 予定より遅れて、15時過ぎから始まった美希による応援演説は、日曜の昼下がりの繁華街ということもあって多くの人を集めた。人気の高い美希をひと目見ようと訪れた有権者も多かったことだろう。 持ち前のユーモアで聴衆の注目を集めながら、美希は隣に立つ自党からの知事候補、西原氏の名前を演説の間中ひたすら間違え続けたのだった。 その回数、明智のカウントによれば実に七回、ということである。 「数えてたのか。暇な奴だな、君も」 全く意に介さない様子で答える美希に、明智も諦め顔をするしかない。 暇とかそういう問題ではなく、完全に「始末書もの」の事案なのだ。彼女の放言で余計な仕事がこれ以上増えてはかなわないので、いつもより厳しく言い聞かせた方がいいだろうかとも考えたが、あまり効果がありそうには思えなかった。 「印象に残らない名前だったから、ついな」 「つい、じゃないですよ。候補者の名前がでかでかと書かれた選挙カーに乗っといて何言ってるんですか」 「選挙カーの上からじゃ、書かれた名前なんて見えないだろ」 こういう時に限って、美希は屁理屈めいた言い逃れを次々と繰り出してくる。ある意味では才能すら感じさせるが、特に意味はない。 「隣に候補者本人がいるのに間違える人がどこにいますか。 最後の方はもう、やけになってわざと間違えてたでしょう」 「引っ込みがつかなくなったんだから、仕方ないだろ。 都度、本人が訂正してたんだからいいんだよ。むしろ名前が印象に残ってよかったじゃないか」 「選挙のときに間違った名前で書かれた無効票が増えたらシャレにならないんですよ」 こうした手合いに、正論で返しても効果がないことは明智も感じとってはいたが、それでも一応、建前というものがあるので反論を加える。 しかし、美希はそれを非情にかわしてくる。 「候補者の名前がでかでかと書かれた選挙カーがあったから大丈夫じゃないか?」 「……大丈夫じゃなかった人がそれを言ってどうするんですか」 明智もいよいよお手上げといった感じで言葉を搾り出す。 「対立候補の得票が伸びるわけじゃないからいいんだよ」 「あー、この件についてはもういいです……」 勝ち誇ったような顔をした美希の前で、明智はがっくりと肩を落とした。 実に不毛な会話をしてしまった疲労感が、どっしりと肩に降りかかってきたようだった。
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17時11分
「西村氏の計らいというのはありがたいが、何でまた美術館なんだ」 「西原だって言ってるじゃないですか」 予定の日程を終えた二人は、県の美術館に車で向かっていた。 ちょうどリニューアル記念の印象派展が行われる直前だったので、報道向けのプレオープン後に特別に貸し切りで見せてもらえる手配がされているとのことだった。 今回わざわざ出張ってもらったお礼ということらしい。 「県職員を務めていた頃に、文化財の保護とかを担当する部署にいたそうですよ」 「へぇ、あの西川氏が文化財保護ねぇ。ちょっと想像つかないな」 「意地でも正しく名前を呼ぶ気がないんですね……」 西原氏があまりそうした文化系の人間に見えないことについては明智も否定しない。 どちらかと言うと体育会系の暑苦しい人物だったので、それも仕方のないことかも知れない。若くてエネルギッシュな点は、有権者に与える印象として、そうマイナスではないと思っているが。 「で? 西森氏が案内してくれるわけか」 「いえ、仮にも選挙戦の真っ最中ですからね。僕たちだけでどうぞ、ということだそうです」 「まぁ、たまにはそういうのも悪くはないか。西本氏にはあとでお礼を言っとこうか」
「なぁ、ところで印象派って何なんだ? 印象に残った風景でも描いてるのか?」 美術館の入口に立てられた大きな看板を前にして、美希が尋ねる。 「……もうちょっと教養のありそうな発言をしてくれますか」 呆れた表情で明智が答えた。 「うるさいな」 さり気なく美希に教養がない前提で話している点には、この際目をつぶる。 「お金持ちはこういうのを集めるのが道楽なんじゃないんですか。ご実家にもあるでしょう、高価な名画の一つや二つ。いくらするのか分からないくらいのが」 わざとらしく偏見に満ちた嫌味を言う明智を、美希は軽くいなした。 「さぁ、どうだったかな。興味がなかったもので、芸術を解する心は養ってこなかったんだよ」 「仕方のない人ですね。いいですか、印象派というのはですね……」
しばらくの間、明智の解説が展開されながら二人は美術館の展示を見て回った。 元々それほど規模の大きな館ではないので、30分もかからずに回り終えてしまった。 その間、明智は印象派の歴史的展開や、作品が展示されている画家のエピソードなどを、面白おかしく教えてくれた。 その澱みない解説は、まるでその道の専門家のようで、美希は思わず引き込まれてしまった。 「このように、光の表現を追究し続けたのが印象派だったというわけです。 僕の個人的な見解でざっくりまとめると、『水面に反射する光フェチ』ですね」 「フェチって君な……」 まぁ、専門家はこのような乱暴な要約はしないのだろうが、横で聞く分には変に堅苦しくなくて助かる。 だいたい、美希のような人間が芸術の類を苦手とする理由は、妙に肩の凝る堅苦しさなのだ。 「相変わらず何にでも詳しいな。まるで学芸員みたいだ。 君がどんなことを知ってても別に驚きはしないが。」 何の気なしに感心の言葉を述べた美希は、隣を歩いていた明智の表情がやや固くなるのを見逃さなかった。 「……美術に詳しい同級生が居たんですよ。その受け売りです」 「ふーん……そうなのか。まぁ、西なんとか氏の名前よりは”印象に残った”よ」 ついに苗字の形にもならなくなった西原氏の呼び方に突っ込みを入れることもなく、明智は取ってつけたようなことを言った。 「……今の時代、知りたいことは何でも、ネットで検索でもすれば案外すぐに分かるものですよ」 わずかな間。その場は軽く流したが、二人の間の空気が微妙に騒ついているのを、お互いが感じ取っていた。
◇◇◇
20時37分
宿泊先のホテルにチェックインを済ませ、エレベーターに向かう道すがら、明智が切り出した。 「明日一日、お休みを頂けますか」 明日は飛行機で東京に戻る予定になっているはずだ。 「ん、どうかしたのか」 秘書と言っても四六時中美希の傍にいるわけではないが、明智が改まってこのように切り出すのは何か事情があるのだろう。 改まって切り出した割に、明智は存外軽い調子で答えた。 「花菱さんには縁もゆかりも無いかも知れませんが、一応僕の地元ですからね。 久しぶりに帰ってきたし、あまり来る機会もないので、ちょっと済ませておきたい用事があるんですよ」 「ふーん、用事ねぇ。まぁ、構わんが」 どうも内容をぼかしてくる辺りに込み入った事情を感じ取りながら、美希は明智の申し出を了承する。恐らくは、ここ最近の違和感と関係していることなのだろうが、それについてここで即座に考えを巡らせるほどの余裕は無かった。 ボタンを押してエレベーターが来るまでの間の短い沈黙の後、扉が開くと同時に明智が言った。 「……いや、それとも、一緒にいらっしゃいますか」 少し間を空けて聞いてきた明智の真意を美希が測りかねていると、明智はこう付け加えた。 「いい機会です」
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例によってご無沙汰しています。また随分と間が空いてしまいましたが、何とか終わりにこぎつけられるように頑張ります。
美希が西原氏の名前を覚えられなかったのは、最初に「西沢じゃなくて…」という覚え方をしてしまったからです。 ちなみに演説中の7回も全部違う名前で呼び間違えました。西で始まる苗字って沢山ありますよね。
何やら思わせぶりで見え見えの伏線を沢山張ってしまっていますが、次回以降で何とか回収に持っていければと思っています。 よろしければ、お付き合いいただけると幸いです。
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