Re: 大切なヒト (9/12更新) |
- 日時: 2013/09/12 10:54
- 名前: サタン
- 「は、はい」
私もハヤテ君の顔から、目が離せませんでした。 密かに想いを寄せている人からこんな風に見つめられて、その視線を避けるなんて、 私にはできませんでした。
「聞いてください、あの…」 「は、はい」
聞いてはいけない。 もし、ハヤテ君が…あくまで“もし”ですが、 私の考えている通りのことを言ってしまったら… 高鳴る鼓動は私の理性が鳴らす警鐘であり、そして…抑えきれない、私の期待。 応えられない、応えてはいけないとわかっていても、それでも抱かずにいられない、 淡い、期待。
聞いてはいけない…でも、聞きたい。 そんな二律背反に捕われながら、結局私はハヤテ君の手を振りほどくこともせず、 どうすることもできず、立ち尽くしていました。 ハヤテ君に手を握られたまま、 ハヤテ君と、見つめあったまま、
「僕の好きな人、ですが…」 「…」
胸が、痛いくらいに高鳴ります。 不安と、期待と、あの子への罪悪感で。
「僕の好きな人は」
息が詰まりそうな沈黙を挟んで、ハヤテ君の唇が開いて、
「おーいマリア、紅茶…って、ハヤテもいたのか。 どうしたのだ二人して?」
唐突に厨房へ現れたナギが目にしたのは、 半端な距離をおいて、顔を真っ赤にしながら自分を驚いた顔で見つめる二人の使用人だったと思います。
がちゃ、と扉が開いた音で私とハヤテ君は一気に我に返り、 ナギがドアから顔を覗かせる寸前に互いに飛び退くようにして離れていました。 ですが何せ咄差のことです、 何事もなかったように落ち着き払って、とまでは参りません。 ハヤテ君はまだ顔が赤いままですし、まず間違いなく私もそうでしょう。 そんな私達の様子に、やはりナギも女の子です、何かしら不審なものを感じとったのか、 なんとなく目つきが険しくなって、
「あ、ナギ、紅茶ですね? すぐに準備しますから、少し待っててくださいね!」 「で、では僕は庭の掃除をしてきます! お嬢さま、失礼します!」
上策、とは言えませんが、ナギに何か言われる前に、私もハヤテ君も、仕事に逃げ出したのでした。
不審げな目つきのままのナギを残して。
「…」
少し午前中にお仕事を頑張り過ぎてしまいました。 忙殺されることで余計なことを考えずに済んだのはよかったのですが、 午後になってすぐに、やることがなくなってしまったのです。 仕方なく部屋に戻り、本を開いてみたりテレビをつけてみたりもしましたが、 一人になって落ち着いてしまうと、どうしても考えてしまいます。
あのとき、ハヤテ君が言おうとしたこと、 部屋を出ようとした私の手を掴んで、引き止めて…そうまでして、私に伝えようとしたこと、
どきん、どきん、という鼓動の音が、静かな室内でやたら大きく聞こえます。
私はハヤテ君のことが好き。 初めはその感情自体を頑に否定しようとしたこともありました。 ですが、芽生えてしまった想いは消えず、彼と共に過ごす日々を糧にそれは強く、大きく育ち…
もはや、自分でも否定しようのない確かな感情となって私の中に存在していました。 でも私は知っているのです。 あの子ナギもまたハヤテ君のことが好きで、 しかもナギはハヤテ君が自分のことを好きだと信じて疑っていないのです。 あの子が私より先にハヤテ君のことを好きになったのだから、 そして私はそのことを初めから知っているのだから。 ナギのためにも、ハヤテ君のためにも私の想いは成就させてはならないのです。 二人とも…私の大切な人だから。
でも、ハヤテ君はそんな事情を知りません。 ナギに想われているなどと、まさか夢にも思ってはいないはずなのです。 だから…もし、仮に。 あの時、ハヤテ君が口にしようとしていた名前が…
コン、コン。
乾いた音が、私の思考を停止させました。
コン、コン。
もう一度、乾いた音―軽いノックの音が、私の胸を叩きます。
「あの、マリアさん、僕ですが…」
扉の向こうから聞こえてくる声は、聞き間違うはずもありません。 ハヤテ君のものでした。 その現実が、私の心をぐらり、と揺るがせます。 まだ、彼の来訪目的が“そのこと”だなんてわからないのに、 わたしの胸は不安と期待で覆われて、鼓動がゆっくりと加速を始めます。
「あの、マリアさん?」 「あ、は! はい! どうぞ」
がちゃ、と扉が開き、
「失礼します」
部屋へと入って来たハヤテ君の顔は普段の彼のものでした。
「あの、マリアさん、パーティーの準備のことで少し伺いたいことがありまして」 「あ…は、はい! なんでしょう?」
すっかり普段どおりのハヤテ君の様子に、私は少しだけがっかりして、 でも、やっぱり安心して、聞かれたことについていくつかの指示を出します。
そうです、自分で決めたことじゃないですか。 この気持ちは誰にも気付かれないようにする、と。 想いを寄せるこの人にだって…いえ、この人にこそ、 絶対に気付かれてはいけない気持ち。 だから…うん、これで良いんです。 それに大体、そもそもハヤテ君が私のことを好きになること自体、有り得ませんし。 全く、私ったら自意識過剰なんですから…まぁ、でもこれで、やっと落ち着いて…
「あの、マリアさん…あと、もうひとつ…」 「はい、なんでしょ…うか…?」
それは油断でした。 私は胸のなかで自己完結的な思いを巡らせるばかりで、 目の前で不自然にうつむいていたハヤテ君の様子に違和感を抱くことができなかったのです。 そして顔を上げた彼の表情は、今朝のあの時と同じ。 恥ずかしげで、だけど真剣な、眼差し、
「ハ…ヤテ、君?」
その眼差しで真っ直ぐに見つめられた私は、 為す術もなく、まるで彼に取り込まれてしまったみたいに、 ハヤテ君から目を反らすことができず、
「あの、こんないきなりですみませんが、今朝のあの話で、 どうしてもマリアさんに聞いて欲しいって言うか…!」
そんなダメですよそれは聞いちゃいけないんです…!
「僕は…僕の好きな人は…」
あなたは知らないでしょうけど、ナギはあなたのことを…だから!
「ごめんなさいっ!」 「マリアさん…?」
ハヤテ君に顔を見られない様に、頭を深く下げて、
「ナギに、あの子に呼ばれていたのでした、すみません! 急ぎますので、失礼しますっ!」
一方的に言い捨てて、私は早足で廊下に向かいます。 途中、すれちがったハヤテ君の顔は見ることができませんでしたが、 うつむいたまま歩く私の視界の端にハヤテ君の手がちらり、と映りました。 その手は微かに震えていて、きっと怒っているのでしょうね… だって、あんなに真剣になって伝えようとした“何か”を、私は聞こうともしなかったのですから。
嫌われた、かもしれませんね。 でも、いいんです。 きっと、これでよかったんです。 これで私も…この気持ちを、諦められ――
「…マリアさんっ!」
背中に投げかけられた弾けるようなその声には、怒りなんかじゃない、 もっと強い何かが込められているかのように、 その声に気圧されたように… 捨てられない、諦めきれない想いに絡めとられたように、 私の足は、動いてはくれませんでした。 背を向けたまま足を止めた私に、ハヤテ君の声が届きます。 さっきのような衝動的な叫び声ではなく、 低く、胸の奥から紡ぎ出すような、強い想いが込められたそんな声で、
「…マリアさん、なんです」
どくん。
「僕の好きな人は…マリアさん、なんです」
どくん。 どくん。
どくん。 どくん、どくん、どくんどくんどくん
心臓は壊れそうなくらいに脈打って、 全身がカタカタ震えだして、止まらなくなって…
破れてしまいそうな胸を両手でぎゅっと押さえ付けて、 私は、
「な、何を言うんですか…?」
声は、どうしようもなく震えていたと思います。 ですが、もうそんなこと、気にしてはいられません。 いえ、もう何がなんだか、わかりません、 わかりませんけど、
「そんな、年上をからかっては、いけません…よ?」 「からかってなんていません!」
ハヤテ君の声が、さっきより近いです。 私を追って廊下へと出たのでしょう。
「冗談なんかじゃありません…僕は、本気でマリアさんのことが…!」
わかっています。 自惚れなんかじゃなく、ハヤテ君の真剣な目や、声でそれくらいわかります。 だって…そんな、何事にも真剣で、真摯な人だからこそ… 私は、ハヤテ君を好きになったのですから。
でも…
「ダメ…ですよ」
背中越しに放つ、拒絶の言葉。 ハヤテ君を傷つけて、私自身をも刺し貫く、痛い、言葉。
「気持ちは…嬉しいです…本当に、嬉しいです。 でも、ダメなんです…」
本当は、ハヤテ君の顔を、目を見て伝えなくてはならないことです。 ですが、こんな顔見せられません。 いつ涙が溢れてしまうかもしれないような半泣きの顔なんて見られたら、 すぐに私の気持ちは、バレてしまうから、いくらあの鈍感さんでも。
ハヤテ君は何も言いません。 私も、これ以上何も言えなくて、 もしかすると、ハヤテ君の次の言葉を待っていたのかもしれません。 でもそれはただの未練です。 何を言われたって、何と言ってくれたって、 私には彼の言葉に応える資格は…ないのです。
ですから…このまま、去ることにしました。
「では、失礼しますね」
最後まで背中を見せたまま、うつむいたまま、その場を離れようとして、
「マリアさん…」
踏み出そうとした一歩が前に、出ません…
「マリアさんは他に、好きな人がいるのでしょうか…?」 「…いいえ」
あなたの他に想いを寄せる男性なんて、
「いません」
嘘でも、いると言えば良かった。 そうすればハヤテ君だって、私のことなんて、きっとすぐに忘れてくれるはず。 なのに…本当に、未練がましいにも程があります。
「では…僕のことが、嫌いなん――」 「違います!」
そんなわけ、ないじゃないですか。 いっそ、そうだったらどんなに良かったか、 嫌いになれるなら、どんなに楽になれることか…
「ナギが…」 「…え?」 「あの子がいるから…」
だから仕方ないんです… 私だってあなたの気持ちに応えたいんです! だから…もう、お願いです… これ以上、私に未練を引きずらせるようなことを、言わないで…
「だ、大丈夫です! お嬢さまでしたら、僕がきっと、いえ、必ず! 説得して見せますから! マリアさんに手出ししたらミンチにするとか凄い剣幕で言われたりもしましたけど、 お嬢さまだってちゃんと説明すれば必ず――」 「私が言いたいのはそんなことじゃありません!」
叫んでいました。 だって、こんな…人が必死になって想いを断ち切ろうとしているのに、 ハヤテ君は今更…こんな見当違いなこと!
「どうして、わからないんですか…」
全て、話してしまおうと思って彼の方に向き直りました。
「あなたにはナギがいるから…」 「マリアさん…?」 「だから私は、ハヤテ君の気持ちには応えられないって…どうしてわかってくれないんですか!?」
声が、感情が抑えられません。
「私だって…私だってあなたのことが…」
え、私感情に任せて何を…
「あなたのことが、ハヤテ君のことが…」
待って、違う! 私が言おうとしたのは、こんなことじゃなく、
「ハヤテ君のことが…」
や、ダメ…それは違う! 私が言いたいのは…
「好きなのに…」
…
「マリアさん…」 「私もハヤテ君のこと…好きなのに!」
言ってしまいました… 決して口にしないはずだった言葉をこの、想いを…!
「マリアさん…」
ハヤテ君の驚いた顔が、滲んで見えました。 ハヤテ君とあの子の間で板挟みになっていた私の心は、 禁忌を犯したその瞬間、決壊してしまったのか、涙が止まらなくて、
「でもダメなんです…ダメなのに!」
ダメだとわかっていても、もう取り返しはつかなくて、
「う…うぅ…ごめんなさい、私…うっ…」
嗚咽をあげて泣くしかなくなってしまった私を…
「うっ!? ハヤ…テ、君…」
ぎゅっと…ハヤテ君が抱き締めてくれていました。
「マリアさん、すみません。 僕は、マリアさんの事情はわかりません。 こんなことを言って、マリアさんのことを苦しめてしまったかも知れません」
私を胸に抱いて、耳元で優しく囁いてくれます。
「でも…それでも、僕はマリアさんが辛い目に遭わないように、全力を尽しますから!」
ハヤテ君の声が、染み入るように私の心に響いてきます。 こんなことになって、辛い目に遭うのは私だけじゃなく、 むしろハヤテ君こそ、本当に辛いことになるのです。 そして彼自身はそのことを知らなくて、私はそれを伝えるつもりだったのに… ナギとの間にある誤解を全て明かして、彼に真実を伝えるつもりだったのに…
囁いてくれる声が、 抱き締めてくれる温もりが… 諦めるはずだった想いを、どうしようもなく掻き立てて、 間違いだってわかっているのに…このまま、溺れてしまいそうなくらい… いえ、もう既に溺れているのかもしれません。 いつの間にか、私もハヤテ君の背に腕を回して、彼のことを抱きしめていたのですから。
わかっています。 こんな満たされた気持ちでいられるのは、ほんの僅かな間でしかないと。 この腕の中の温もりも、やがて幻のように失われてしまうのだと。 それでもせめて、どうせ叶わぬ想いなら、せめて今、一時だけでも、 顔を上げると、すぐそばにハヤテ君の顔がありました。 視線が絡まって、その優しい瞳に引き寄せられるように、更に顔を近付けて、 ハヤテ君の吐息を肌で感じて、ゆっくりと目を閉じて、
ばさっ。
背後で、音がしました。
私は目を開けて、 ハヤテ君は顔を上げて…
「お…嬢さま」
禁忌を侵した報いは、こんな短い夢を見ることすらも許してはくれませんでした。
温かい、刹那の夢は幻と消え――
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