secret nightmare【2】 |
- 日時: 2013/07/01 15:59
- 名前: 春樹咲良
- heart
自分の望んでいたはずのことが,思いがけない形で実現したとき,素直に喜べなかったのは何故だろう。まるで,実現してしまったこと自体が罪であるかのように,自分の心は苛まれていく。 あなたの無神経な笑顔は,それだけで憎たらしく,それだけで愛おしい。こんな,ままならない感情を持つことになると分かっていたならば―― 分かっていたならば,何かが変わったというのだろうか。
*
「恋は罪悪」という言葉は,どこで見かけたのだったか。昔読んだ小説の一節だった気がするが,それがいつのことだったのか,すぐには思い出せない。本棚に並んでいる本のどれかだっただろうか,と思ったが,確かめるほど気になることではなかったのでやめておいた。 古今東西,「恋」にまつわる格言は掃いて捨てるほどある。自分にはあまり縁のないことだと思って,ほとんど気にも留めずに生きてきたけれど。実際に「人を好きになる」という経験をして,今まで自分の知らなかった感情が,自分の中にもあるのだということを知った。それもここ半年の間に,私を取り巻く環境は驚くほど劇的に変化した。
夜風にでも当たろうと思って縁側に出る。まだ起きている住人も多い時間だが,縁側には誰もいなかった。 何の因果か,数ヶ月だけという約束でなし崩し的にこのアパートで暮らすことになってしまってから,しばらく経つ。生活自体には慣れたが,そもそもアパートの持ち主も,その他の住人の大半も,同世代の友人知人ばかりという環境は,落ち着いて考えるとかなりぶっ飛んでいる。そんな生活に「慣れた」と言い切れる私に気づいて,人間の環境適応能力の高さを改めて実感する。 いや,いくらぶっ飛んでいるとはいえ,環境だけ見れば友人知人との共同生活は,合宿の延長のようなものだ。ある一点の問題さえなければ,入居の時にあそこまで渋ることはなかっただろうと思う。
「今日は風が涼しくて気持ちいいですね」 その「問題」が,縁側に座る私の背後から声をかけてきた。びく,と肩が飛び上がったのを隠すように,平静を装って振り返る。 「私の背後に立つなんて,ハヤテ君,気配が殺せるの?」 「執事には神出鬼没のスキルがデフォルトで備わっているんですよ」 なにそれ,と受け流すと,このアパートの執事であるハヤテ君は,私の隣にそっと腰を下ろした。 執事がいるアパートなんて,日本中どこを探しても他に見つからないだろう。そして,この恐らく日本唯一のアパート付きの執事は,びっくりするほど万能で,呆れかえるほど無神経な男の子だ。 「何か考え事ですか?」 「別に大したことじゃないわ。気分転換に夜風に当たろうと思っただけ」 当人を前にして「あなたのことを考えていた」とは言えない。 「お疲れなんじゃないですか。ヒナギクさん,生徒会のこととかでいつも忙しそうですから」 働かない役員が約3名いたりするのが主な原因だと思うが,そんなことより, 「私に言わせれば,ハヤテ君の方が働きすぎよ。いつか過労でぶっ倒れるわよ」 「僕は忙しいのに慣れてますから。ご心配には及びません」 でも,とハヤテ君は言葉を続けた。 「今日は僕もちょっと,気分転換ですね」 そう言うと,ハヤテ君はゆっくり夜空を見上げた。つられて見上げると,月を覆っていた雲が少しずつ晴れていくところだった。そう言えば今日は,満月だったかも知れない。 しばらくは無言で,二人で夜空を見ていた。満月がくっきりとその姿を現すと,おもむろにハヤテ君が言った。 「見てくださいヒナギクさん。月が綺麗ですね」 そうね,と答えようと思ったところで,ふと思い出した。さっきまで考えていた,「恋は罪悪」という言葉。その小説を書いたのが誰なのか。その作者が,「月が綺麗ですね」と訳したと言われている言葉。色々なことがぐるぐると頭の中を駆けめぐって,蒸気を発するほど顔が熱くなる。 「……」 無言の時間が長かったからか,ハヤテ君が「ヒナギクさん?」とこちらの顔を覗き込もうとしてきたので,思わず 「な,何でもないわよ!」 と取り繕おうとして,顔を覆いながらハヤテ君の背中をはたいた。が,はたく力が強すぎたのか,ハヤテ君はもんどり打って前方の庭先に転げ落ちた。 「あいたたた……」 「ちょ,ちょっと大丈夫?!」 「ははは,大丈夫ですよ。鍛えてますから」 背中をさすりながら縁側に座り直すハヤテ君と入れ替わりに,いたたまれなくなって私は立ち上がった。 「へ,部屋に戻るわ!」 「え? は,はい。おやすみなさい」 わずかに困惑を浮かべながら,いつも通りのあいさつを私にかけてくれる。いつもそうだ。私だけが勝手に盛り上がって,変な方向に感情がほとばしって,ハヤテ君にもの凄い迷惑な思いをさせている。 女の子として意識されていないのではないかと常々思っては落ち込む。大体が自業自得だから始末に負えない。
「恋は罪悪」――本当に,その通りかも知れない。 少なくとも私は,こと恋が絡むと,明らかに判断力が低下する。自分の行動を振り返って,自己嫌悪に陥ってしまうことも度々。 でも,世の中に数多ある恋の格言は,その多くが恋の両面的な価値を指摘している。「苦しいものであり,しかしだからこそ素晴らしい」と。目に付く格言のエッセンスだけを抜き取れば,概ねそういうことをみんな言っている。 それは,もう何百年も前からそうだったのだろうと思う。 だから,今しばらくは私も,このちっぽけな大問題に踊らされている。
------------------------------- 基本的に行き当たりばったりの短編連作で進む予定です。
話題にした作家が誰なのかは,博識な読者諸賢にはお分かりのことだろうと思って名前は出しませんでした。 どうでもいいですが,千円札のデザインが変わってからもうすぐ10年経つらしいですね。
※5/14追記 まさかの本編ネタ被り…。
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