secret nightmare【5】 |
- 日時: 2013/07/05 11:24
- 名前: 春樹咲良
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いつの間にか,ルビコン川を渡ってしまっていたみたいだ。 思い返してみるけれど,それがいつのことだったかは分からない。 或いはまるで,初めて会ったときから,こうなることを知っていたかのような。 そう,囚われてしまったのは,私。 どんなにもがいても,溺れそうなの。 今はまだ,光の届かぬ水底で――
*
迂闊だった。こんな時に限って,傘がないなんて。 こんな時というのはつまり,下校途中に夕立に遭ってひとまず公園の東屋に避難した今の状況を言う。 校門を出たところまでは,夏真っ盛りかというような日射しがあったはずだったのに。 途中からポツポツと降り出した雨に歩く速度を速めたのも束の間,バケツをひっくり返したような,というのはこういうのを言うんだろうというような大雨になってしまった。 こんなことなら折り畳み傘を鞄に入れておくべきだったと後悔したが,この雨ではあまり効果的ではなかったかもしれない。 学校になら置き傘くらいはあっただろうが,引き返すには少し遠い。出来れば早く帰りたいと思っていたが,どうやらそれも叶いそうにない。 濡れた制服が肌に張り付いてベタベタする。 いつまでもこうしては居られない。このままでは確実に体が冷えて風邪を引く。 早く帰らなければ。しかし,この雨がいつまで続くか分からない。 こんな時――そう,ピンチの時に駆けつけてくれる人。 そんな私の考えを読み取ったかのように,ふと気づくとこちらに歩いてくる人影があった。 ――まさか,本当に現れるとは。
「あぁ,よかった」 ハヤテ君は,東屋で雨宿りをしている私を認めると,走って駆け寄ってきた。 「もしかして,傘をお持ちじゃなかったのではなかったかと思って」 この人は,本当に,どうしていつも……どうして…… 「お迎えにあがりました,ヒナギクさん」 傘を畳んで,執事らしくお辞儀してみせた彼はしかし, 「……どうして一本しか傘持ってないのよ」 畳んだ傘の他は手ぶらでやってきたのだ。 「……あれ?」
何ということだろう。ピンチ拡大だ。 傘は一本,人間は二人。雨の中,濡れずに二人で帰る方法として,考えられるものは―― 一緒の傘に入る。 ……無理だ。 嫌なわけではない。しかし,圧倒的にこちらからは頼みづらい。 かと言って,ハヤテ君が提案してくるのも―― 「では,ヒナギクさんはこれを差して帰るといいんではないでしょうか」 「でも,それじゃ……」 「僕は走って帰りますし」 そう言って私の手に傘を握らせる。そうだった。この人はこういう人だった。 「それもおかしいでしょう。ていうかそれじゃ私の方が気持ち悪いわ」 傘を持ってきてもらっておいて,持ってきてもらった人には濡れて帰ってもらうなんて,このままずぶ濡れで帰った方が幾分かマシだ。 「いえ,しかしですね……」 ああもう,このままでは埒があかない。 「はぁ……」 この際,仕方がないか。 この人は,変なところで頑固だ。女の子の扱いに関して言うなら,気が回り過ぎてどこかズレていることも多々ある。 そう,だから,今から私がする提案は,とても不本意ながらするものだ。断じて勘違いしてはならない―― 一体誰に言い訳をしているんだろうか,私は。
「……このままこうしているわけにも行かないし,二人とも早く家に戻らないといけないし」 声が震えているかもしれない。 「そんなに離れてないっていうか,ちょっと急げばすぐに着く距離だし,だからその――」 言い訳がましいかもしれない。でも,勢いに任せて, 「傘,一緒に入って帰らない?」 一気に言ってしまう。ああ,言ってしまった。 「ええとその……いいんですか?」 「何よ,私とじゃ不満?」 多少の遠慮を示すのは,ハヤテ君ならありそうだと思っていた。しかし,続くハヤテ君の一言は,緊張していた気分を一気に暗転させるものだった。 「いえ,そういう訳では……。ただその,僕と傘をシェアするのは,ヒナギクさん,イヤだったりしないかなと……」 もう少しで,持っていた傘をダメにする勢いでハヤテ君を打ち据えるところだった。 この期に及んで何てことを言うのか。 ここまで,思い切って,言ったのに。 ここまで,いつも,助けてもらっているのに。 ――こんなに,想っているのに。 「……じゃない」 「えっ?」 「イヤなわけ,ないじゃない!」 ほとんど叫ぶように言ってしまってから, 「……何でもない」 何でもないわけがない。 ハヤテ君は,それ以上は固辞しなかった。 「……すみません」 また謝られてしまった。 「それじゃあ,少し急ぎますけど」 再び私から傘を受け取ると,それを差したハヤテ君の横に並んで,私たちは歩き出した。
顔があげられなかった。 重苦しい無言。二人で黙々と帰り道を歩いていく。 さっきまでの会話を思い返してみる。どうしていつも,こう失敗ばかりしてしまうのだろう。 折角の,その……相合傘なのに。 そう言えば――ハヤテ君は,「傘をシェアする」という表現をしていたっけ。 何て言い回しだろう。意図的に「相合傘」という単語を避けられたのか。 どうしてこうなってしまうのだろう。そう考えると,気持ちが一気に沈んでいく。 信号待ちで止まったときに,意を決して一度,ハヤテ君の方をちらりと見上げてみた。 ハヤテ君は,妙に緊張した顔をしていて――あれ? 緊張しているの? もしかして,この表情は,ハヤテ君―― ――何だ,そうか。 ハヤテ君も,恥ずかしいのか。 そう言えば,情緒が小学生並みだとからかったこともあったっけ。思えば遠い昔のことのようだ。 私だけが恥ずかしがっているわけじゃないのだと分かると,沈んでいた気持ちが急に軽くなったようだった。 「何よその顔。照れてるの?」 「からかわないでくださいよ,もう。無事にヒナギクさんを家まで送り届けるミッション遂行中で,緊張してるんです」 やっぱり,照れている。 「ほら,濡れちゃいますよ」 そう言って,傘を私の方に傾けてくる。こんな時でも,この人はこんなに優しい。それは,知っていたことだけれど。 今この瞬間,こんな風に私に優しいハヤテ君が居るのだということを,私だけが知っている。これは,私だけの時間。 それは,今までにあまり感じたことのない満足感をもたらすものだった。
そうこうしているうちに,アパートまではあと数百メートルの一本道というところにさしかかった。紆余曲折はあったが,結果だけみれば相合傘でここまで歩いてくるという幸運に恵まれた。 急な夕立には感謝しておいた方がいいのかも知れない,などと考えているところへ, ごおっ,という猛然とした音と共に,今日一番の突風が駆け抜けた。 それは,傘が壊れそうなほどに強い風で……そう,強い風で―― ざああああああ―― 傘が壊れた。無残に折れた骨が,むき出しになっている。 しばしの間,二人で呆然と立ち尽くした。……もうこうなってしまっては。 「もうこうなったら」 「走るしかないわね」 二人とも笑っていた。もう笑うしかなかった。そしてそれはなぜか,妙に安心感のある笑いだった。 「じゃあ,行くわよ? 用意スタート!」 「え,ちょ,ちょっとヒナギクさん?!」 もうアパートは見えている。振り返ればハヤテ君も,出遅れながらも走ってついてきている。帰ったらすぐにお風呂の支度をしてもらわないと。濡れたままでは風邪を引いてしまうかもしれない。 そうだ,着いたらハヤテ君にこう聞いてみようか。
「お風呂,一緒に入る?」
------------------------------- 時間が作れたので,週明けを待たずに第5話を更新です。 相変わらずどこを目指しているのか私にも全然分かりません。
とりあえず,ハヤテの不幸体質にかかれば,相合傘なんて定番のテーマでも無事には済みません。 結果的にヒナギクが楽しそうだからいいかな,などと思ってみたりなどする。話の都合上,最近ちょっとヒナギクが迂闊すぎです。
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