「シャルナちゃんシャルナちゃん、悪いけど文はもう、シャルナちゃんと一緒に帰ったり休み時間におしゃべりする暇は無くなるのですよ」 いきなり突きつけられた決別宣言に対し、シャルナの脳裏には寂しさよりも疑問のほうが先に立った。白皇学院に入学して以来、 学内学外はおろか夏休みや海外旅行にいたるまで常に一緒に居た日比野文とシャルナ。自分と離れた日比野文が何をしようというのか、 皆目見当が付かなかったから。 「文は生徒会長になるのですよ! この学園をパラダイスにするのですよ! これから忙しくなるのですよ!」 「……あぁ、そう」 そういえば生徒会選挙が始まるんだっけ、とシャルナは学内掲示板で見た内容を思い返していた。インドからの留学生である自分には 縁遠い話題だと思っていたけれど、親友の文ちゃんがそれに関わる気でいたとは。生徒会といえば積極性あふれる優等生たちが集まる場所 なんだろうし、放課後だけでなく日常も何かと仕事が増えることだろう。これまでのように自分と2人でおしゃべりをしたり遊びに行くような 時間は、確かに残らなくなるのかもしれない。 ……まぁ、仕方ないわよね。文ちゃんはいろいろとアレな子だから、優秀な人たちと一緒に何かをするのはきっとプラスになる。親友だからと いって邪魔しちゃいけない。 「頑張ってね文ちゃん。私も応援してるから」 「ふぁい! 文は頑張っちゃうのですよ!」 高らかに拳を天に突き上げる日比野文から思わず視線をそらしたシャルナは、ようやく訪れた胸の痛みを表情に出さないよう奥歯をかみ締めるのだった。
決別したとはいえ親友が関わる以上、生徒会選挙に無関心ではいられない。シャルナはそれとなく生徒会選挙の制度と見通しについて 情報を集め始めたのだが……その見通しは惨憺たるものだった。 生徒会長の立候補者は2名。新人の日比野文と、現職にして2期目を目指す桂ヒナギク。だが2人の対決は一騎打ちの盛り上がりとは程遠い、 消化試合にも似た冷めた雰囲気に包まれたものだった。なにしろ桂ヒナギクといえば学年主席の特待生にして剣道部のエース、 しかも学園トップレベルの美貌と気さくな人柄で知られた有名人であり、葛葉キリカ理事長代理との抗争を含む数々の伝説を残しつつ 1年生ばかりの生徒会を無事にまとめ上げた“リア充の星”である。そんな彼女が2期目を目指すとなれば競ったところでピエロも同然、 しかも対抗馬である1年生は知名度ゼロ……事実上の信任投票、台本の決まってるプロレス選挙、2重の意味での鉄板選挙と 陰で揶揄されているような状況だったのだ(『鉄板』に秘められた2つ目の意味については誰もが黙して語らなかった)。 《まぁ、会長になった文ちゃんなんて想像もできないし……これだけ差があれば負けても諦めがつくってものよね、きっと》 どうやら日比野文が当選しそうに無いと悟ったシャルナは、どこかホッとしている自分自身に嫌なものを感じて、激しく頭を振ったのだった。
やがて生徒会選挙が正式に告示され、2週間の選挙戦が始まる。しかし現職の強みを生かして初日からポスターや知人ネットワークを駆使する 桂ヒナギク陣営に対して、日比野文の空回りっぷりは目を覆わんばかりだった。 「ふぁい! 学食の皆さんこんにちは、生徒会長候補の日比野文どぇす! ふーみんって呼んでくだ……」 「こら! 逃げ場のない食堂や教室での選挙活動は禁止です! 初日から何やってるんですか、あなたは!」 「え、えぇっ、そんな……」 常識の無さがどうこうというより、その程度のことすら忠告してくれる子がいなかったのか、と話を聞いたシャルナは頭を抱えた。そして美術の授業でも、 「ふぁい! 屋外写生中の皆さんこんにちは、文が来たからにはもう安心ですよ! くそ面白くもない写生なんか放っといて、文のほうに注目……」 「授業中になにやっとんじゃゴルァ!」 「ひ、ひぃ〜〜ん……」 こうして日比野文の知名度はゼロから徐々に上がっていったのだが……それは頼れる生徒会長候補としてではなく、傍迷惑な珍獣としての それだった。そんな彼女の評判をシャルナはしばらく静観していたが、それでもなお次々と耳に飛び込んでくる彼女の武勇伝を聞いているうち、 ふと思い至ったことがあった。 《ひょっとしてあの時の文ちゃんの言葉……選挙活動で忙しくなるから空いた時間に私と遊べなくなるって、単にそれだけの意味だったんじゃ? もしそうなら、勝手に別れの言葉と思い込んで拗ねていた私って……》
文ちゃんに謝ろう。でもなんて言って謝ったらいいんだろう。『文ちゃんに嫌われてると思い込んでごめんなさい』なんて言われたって困るわよね? そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま、鞄を手に提げて下校するシャルナ。だがそんな彼女の耳に、元気な親友の泣きそうな声が飛び込んできた。 「こんにちは! 文の話を聞いてください! この学園をパラダイスにするですよ! 文に力を貸してください!」 学園の門塀の上に登って、下校する生徒たちに向かって声を張り上げる日比野文がいる。スカートを下から覗かれるのも構わずに、 通り過ぎる生徒たちに必死で訴えかける少女が目の前にいる。だが珍獣の噂ゆえかスカートのことを気にしてか、生徒たちは目を伏せたまま 足早に通り過ぎていくばかりだった。文の話を聞くために立ち止まろうとするものは誰一人としていなかった。そしてその足元では、 門塀の上から撒いたであろう文の写真入り宣伝チラシが次から次へと踏み潰されていった……。 「文ちゃん!」 もう言葉なんて選んでいられない。考える前に唇と身体が勝手に動いた。シャルナは鞄を放り出すと、一目散に文のもとに駆け寄っていた。 「なんですかシャルナちゃん。文はとっても忙しいのです」 「私もやるわ! 一緒にパラダイスを作りましょう!」 「えっ……シャルナちゃん、シャルナちゃんは分かってくれるのですか! さすがはシャルナちゃんです!」 瞳に涙を溜めかけていた日比野文は一瞬にして笑顔を取り戻すと、塀の下にいるシャルナに向かってダイビングタックルを浴びせてきた。 そして文と一緒に倒れこみながら、シャルナは胸の奥のしこりが綺麗に洗い流されていくのを感じていた。 《まったくもう……文ちゃんったら、私がいないとダメなんだから》
勝ち目がないのは分かってる。この子が底抜けのアホだというのも分かってる。だけどこのままじゃ悲惨すぎる。せめて文ちゃんが立ち直れなく なる程のダメージを受けない程度には善戦させてあげなくちゃ……そう思って日比野文の参謀役に名乗りをあげたシャルナだったが、担ぐ神輿の スカスカっぷりは彼女の想像を超えていた。 例えば生徒会長の立候補用紙には、推薦人2名の名前を書く欄があるのだが、 「私の名前が勝手に書かれてることには今更ツッコまないけど……もう一方の『アルマゲドン』って誰?」 「ふぁい、文が飼ってる犬なのですよ! チョココロネをあげるって言ったら気持ちよく名前を貸してくれたのですよ!」 「……せめて人間の名前にしなさいよ。しかも最初から買収してるし……」 また立候補にあたって、新生徒会の政策について聞いたところ、 「せーふくですか? さすがはシャルナちゃん、文がさりげなくジャージに履き替えたのを見抜かれてしまったのですよ!」 「制服じゃなくて政策。学園をパラダイスにしたいんでしょう? どんなパラダイスを、どうやって作るのか、よ」 「そんなの決まってます、文が何もしなくても宿題やテストで満点がもらえるような学園ですよ! これぞ学生にとって究極のパラダイスですよ!」 「……文ちゃん、本気で言ってる?」 「ふぁい! 働くとか頑張るとかは下々の輩に任せておいて、時計台の上から天下国家を論じるのが真のセレブであり、上流階級の子弟が集う 名門学院で身につけるべき教養なのですよ! これこそがNEET革命の第一歩だって、文のお兄ちゃんも力説していたのです!」 《だめだこいつら、早くなんとかしないと》 なんで遠い異国に留学に来て、こんな子のサポートをしなきゃならないのかしら……インドの王族出身のシャルナにとっては悪夢としか思えなかった。 だが考えてみれば、責任の一端は自分にあると言えなくもない。ゴールデンウィークを利用して日比野文と一緒に旅行したとき、インドの実家に 寄った彼女を『異国からはるばる来た友人』として歓迎してしまったのがマズかった。あの召使に囲まれた上げ膳据え膳な日々の思い出が、 文のパラダイス構想に影響を与えてしまったことは想像に難くない。きっと帰国後に大喜びで家族にしゃべり、引きこもりのお兄さんと意気投合して しまったのだろう。
とにかく。 こんな有様ではヒナギク会長に勝てるわけがない。付け焼刃でまともな政策を覚えさせたって初日からボロを出すのは確実だろう。 シャルナは正攻法をあきらめ、搦め手から反撃することにした。 「こうなったら、握手券商法を取り入れましょう」 「え、なんですかシャルナちゃん?」 「文ちゃんの演説を最後まで聞いてくれた人には、握手のついでに回数券を渡すの。もし文ちゃんが会長になった暁には、その券を沢山もってる人から 順にセレブの仲間入りをさせてあげるって言って……こうすれば耳を傾けてくれる人もいるんじゃないかしら。元手はタダだし、結果がどちらに転んでも リスクはないし」 「なるほど、それで文が会長になったら、なにその紙切れ?とか冷たく突き放して文だけが特権独り占めというわけですね! さすがです シャルナちゃん汚いです、でもそこにシビれる憧れ……」 まずはグーパン、続いてチョップ、アイアンクローを決めた後、最後のとどめはしょーりゅーけーん。 息もつかせぬ4連コンボで文の軽口を封じたシャルナは、引き続いてもうひとつの打開策を口に出した。 「でもね文ちゃん、どんなにサービスが良くても、それだけじゃ足りないの。実績の欠片もない私たちが現役の会長さんを倒すのに、 欠かせないのはなんだと思う?」 「ほぇ? 文の絶世の美女スマイルですか?」 「ちがうわ、敵失よ。スキャンダルとも言うわね」 文の首筋に冷たい風が吹き抜けたが、もともと色黒であるシャルナの表情はさほど変わったように見えなかった。 「まぁ、そっちは私に任せてもらうわ。文ちゃんは明日の朝までに、握手券を100枚ほど用意しておいてちょうだい」 「かいちょーさんの弱点なら、あの時のパンツ丸出し……」 「……ああ、文ちゃんは余計なこと考えなくていいから」
――*――*――
インド人のシャルナが別の意味でブラックな面を見せた、その翌日。 白皇学院の生徒会長・桂ヒナギクはいつものように、早めに登校して生徒会室で書類の処理を行っていた。別に選挙期間中であっても 生徒会の仕事が減るわけじゃない。それどころか生真面目なヒナギクは今期の仕事を来期に残すまいと、普段にも増して猛烈なペースで 要承認書類に目を通し会長印を押していった。再任することはほぼ確実なのだから手抜きしても問題ないとは言っても、それとこれとは別なのだ。 そんな彼女の耳に、軽やかな携帯コール音が飛び込んでくる。この着信音は小さい頃からの彼女の親友、花菱美希のものだ。 いつも遅刻ぎりぎりの彼女がこんな時間に電話してくるなんて珍しい。 「おはよう美希、今朝は早いのね」 「なに暢気(のんき)なこと言ってるんだヒナ、学校にはもう来てるのか?」 「う、うん、生徒会室にいるけど……一体どうしたの?」 「学園中が大騒ぎなんだよ、新聞部の号外が出ててさ! 今から理沙たちとそっちに行くから!」
【桂会長のご乱行! 剣道場の外でも木刀や真剣を振り回し、襲われた人や建屋は数知れず!】 【放課後はヒーロー? 桂会長、顔を隠して男装し、商店街の催し物に出演との噂!】 【会長権限の私物化? 桂会長の親族が宿直室を占拠! しかも学内での飲酒疑惑すら浮上!】 【副会長の霞女史、秘かに学園敷地の切り売りを画策! 理事一族との繋がりを盾にした横暴の数々!】 【生徒会書記の国語能力に疑念あり! 議事録の記載に『和菓子』と『我が師』が混在!】 【衝撃の事実! 桂会長と春風書記が同人誌の即売会にサークル参加したとの目撃証言! 我らが女神にオタ疑惑?】
ヒナギクの元に届けられた新聞部の号外には、現生徒会にまつわるゴシップ記事が所狭しと並べ立てられていた。それらはヒナギクに近しい人間なら 誰でも知ってる程度の、校則にも法律にも触れない些細な出来事ばかり。しかし彼女と直接の親交がなく、美貌の優等生会長を偶像化しアイドル視している 一般の生徒たちにとっては、その脳内イメージを揺るがすに十分な過激な内容ばかりと言えた。 「明らかな選挙妨害だぞ、これは! ヒナのイメージダウンを狙って誰かが流したに違いない!」 「すぐに反論しろ、ヒナ! この記事を相手方に利用される前に!」 義憤に駆られてヒートしていく理沙と美希、そして彼女らとヒナギクの間に立ってオロオロしている泉。しかしそんな親友たちの慌てぶりを目の当たりに したお陰か、ヒナギクの顔色は落ち着いたものだった。 「反論は必要ないわ。書き方は悪意たっぷりだけど、どれもみんな事実なんだもの……選挙期間中だけ猫を被って皆を騙すなんてイヤだし」 「ヒナ!」 「それでいいの、ヒナちゃん?」 「ええ、こんな子は生徒会長にふさわしくないって皆がそう思うなら、それはそれで仕方ないでしょう……私は私だもの、生き方を変えるなんて出来ないわ」 桂ヒナギクは静かに、だがしっかりと顔を上げて、心配してくれる親友たちに向かって断言したのだった。
彼女の堂々たる態度が功を奏したか。その後も生徒会に寄せられる投書は大半がヒナギクへの励ましの言葉で、幻滅した旨の意見は十数通に留まっていた。 ヒナギクたち現生徒会への支持は以前ほど磐石ではなくなったものの、なおも確実に過半数を維持する勢いを保っていた。 だがヒナギクたちが反論しなかったことに味を占めた新聞部は、さらなるゴシップを求めて学内外を駆け回った。そして彼らの活動とシャルナの放つ毒牙とが 結合した結果、3日後の朝には新たな号外記事が白皇学院の生徒や教職員たちにばら撒かれることとなった。その記事は学院全体に大パニックを引き起こすに 十分だった。
【桂会長にオトコの影? 立ち入り禁止のはずの生徒会室にお気に入りの男子生徒を連れ込み、風呂まで使わせていた疑惑が急浮上!】 【ヒナギク会長に隠し子疑惑! 学内で公然と『ママ』『パパ』呼ばわり! お相手は例の男子生徒か?】 【桂会長、隠し子を伴い男子生徒と一つ屋根の下で暮らしていたとの目撃証言! そこには某芸能人Rの姿も! 天使は地に落ちてしまった!】
こうして不本意な形で時の人になった桂ヒナギクは、教職員に向けた理事長室での事情説明と、全校生徒に向けた新聞部主催の釈明会見に引っ張り出される ことになった。影の共犯者ともいえる理事長と霞愛歌の口添えもあって前者では『おとがめなし』の裁定をもらえたが、後者はそう簡単には行かなかった。 「では会長、今回の報道内容を否定されるわけですね? 隠し子騒動も男子生徒H・Aとの同棲も事実無根、身に覚えの無いガセネタだと?」 「……それは……ええ……そう見られても仕方ない状況は一時期ありましたけど、報道されている類の行動は全く……」 「全面的に否定されるわけでは必ずしもないと?! そこんとこ詳しく!」 「ですからその……外国からきたお姫様になつかれて、少しの間でいいから一緒に暮らして欲しいと頼まれまして……」 「それがなぜ、同級生男子と同じ家でなければならなかったのでしょうか?」 「それは……成り行きというか何というか……私にもよくわからない事情があったみたいでして……」 いつもの凛々しい桂ヒナギクの姿とはまるで違う、辛そうに唇を噛みながらたどたどしい口調で言葉を濁す生徒会長の姿を見て、取材に当たった 新聞部の面々や会見映像をみた生徒たちは一様に同じ印象を持った。 《ヒナギク会長は何かを隠している!》 本人からそれを聞き出せないと悟った彼らは会見終了後にヒナギクの友人たちへと矛先を移す。その友人たちの口から飛び出してくる言葉は……。 「う〜ん、確かにヒナちゃんと一緒に、男の子の家にご飯を作ってあげに行ったことはありましたけどぉ〜」 「ヒナのことを『ママ』と呼んでた可愛い女の子のことなら、私たちも見たよな」 「確かあのとき、ヒナは赤い顔して『子供を産むような行為はしたことない』って言って、でもH君の方は『はっ?! もしかしてあの時……』とか言ってたっけ」 こうしてゴシップ好きで言葉足らずな友人たちの証言によって、ヒナギクに向ける生徒たちの視線はいっそう険しさを増すばかりであった。
そんな折、桂ヒナギク擁護の論陣を張る1年生が現れる。
「桂ヒナギク先輩の、なにが悪いというのですか? 好きな男の子と一緒に暮らしたい、子供を可愛がってあげたい、 どちらも女の子なら当たり前じゃないですか! そうでしょう? 私たちだってそうしたい気持ちはあるし、将来そうする人も多いんです! 私たちの両親もご先祖様も、ずっとそうしてきたじゃないですか。 恥じることなんて何一つ無いはずです! なのにどうしてヒナギク先輩だけ、こんなに注目され奇異の視線を向けられるのか? ……それは彼女が生徒会長だからです。みなさんに選ばれた公的な立場だからです。 可哀想だと思いませんか? みなさんに選ばれて、みなさんのために尽くして、 それなのに当たり前のことをしただけでみなさんに責められるなんて! 先輩は悪くなんてないんです。悪いのは私たちです。彼女に重責を課した私たちです。 ……もう、いいじゃないですか。先輩を解放しましょう。窮屈な檻から出してあげましょう。 先輩は会長をもう一期やるって言っています。責任感ある態度はご立派です。 でも皆さん、先輩だけに貧乏くじを押しつけるのは、もう止めにしませんか?」
シャルナ・アーラムギルの訴えは、ゴシップを面白がるあまり苛めに近い状況を作ってしまったことに良心の呵責を感じていた全校生徒たちの心に ジーンと染み渡るものだった。 「学園をパラダイスにするですよ! テストを満点にするですよ! 楽して遊んで卒業証書ゲットなのですよ!」 正直いって、シャルナの後に演説する生徒会長候補・日比野文の公約には誰もが胡散臭さを感じていた。しかしヒナギクを普通の少女に戻すには 他に選択肢はないし、大盤振る舞いな公約といえど実際その半分も実現してくれれば儲けもの。こうして支持者増加と言うより反対者なしという形で、 毎日昼休みと放課後に催される日比野文の演説会には多くの人が足を運ぶようになった。気を良くした日比野文はますます気前の良い公約を連発し、 その受益者の証ともいえる握手券は先を争うように彼女の支持者たちへと浸透していった。 こうして一方的な争いと思われていた生徒会選挙は、じっくりと着実にその潮目を変えつつあった。いまだに態度を決めかねている浮動票の動向次第では 日比野文が新会長に選出される可能性もゼロではない。ついに選挙戦終盤にはそんな状況すら生まれつつあった。
「なんだこれ、いったい何が起こってるんだ?」 「さ、さぁ……」 引きこもりの天才少女・三千院ナギとその忠実なる執事・綾崎ハヤテ。突発的な海外旅行に行っていた彼ら2人が白皇学院に戻ってきたのは、 生徒会選挙の投票を2日後に控えた、そんなある日のことだった。
――*――*――
白皇学院で持ちきりの噂と釈明会見映像を目にしたハヤテは、即座に時計台の上にある生徒会室へと向かった。 『私のアパートで暮らしてたことがヒナギクの黒歴史扱いだって? ふざけるな!』とブチ切れるナギの声に背中を押されながら。 「ヒナギクさん!」 「……ああ、久しぶりねハヤテ君。なんだか何ヶ月も会ってなかったような気がするわ……」 少し見ない間に、小綺麗だった生徒会室はすっかり雰囲気が変わっていた。未決済の書類は乱雑に積まれて半ば崩れており、大切にされていた ティーカップのセットも使われっぱなしのままテーブルに放置されていた。生徒会室のあちこちには様々な色彩のビラがくしゃくしゃに丸められて 放り投げられていた。もしここにお酒の瓶と臭いが加わっていたら桂先生の部屋と一緒だな、と綾崎ハヤテは不謹慎にも苦笑してしまった。 そしてその笑みを、生徒会室の主は別の意味に受け止める。 「驚いた? 哀れよね、笑っちゃうわよね。史上2人目の1年生生徒会長ってさんざん持ち上げられてた私が、今じゃこの有様よ… …他人の評価なんて残酷なものだわ」 こんな風に自嘲するヒナギクをハヤテは見たことがなかった。いつも自信に満ちあふれ、太陽のように輝いていた桂ヒナギクはもう居なかった。 ハヤテは表情を引き締めると、おずおずとここにきた用件を切りだした。 「会見の映像、見ましたよ。ヒナギクさんらしくないじゃないですか、あんな不自然な受け答えをして……あれじゃみんなに疑われて当然です。 なんであんな……」 「……だって!」 ヒナギクはテーブルに拳を打ち付けると、ようやく顔を上げてハヤテと視線を合わせた。 「悔しいじゃない、あんな風に言われるなんて……短い間だったけど、私、楽しかったのに。アリスちゃんやルカ、千桜や歩、そしてナギやハヤテ君… …いろんなことを一緒に出来て嬉しかったのに。それを不純とかふしだらとか決めつけられて、騒ぎが大きくなるから無かったことにしなさいって 先生たちにも言われて……情けなくって涙がでるわよ!」 アパートで暮らしたあの夏の思い出を否定されたくない。プライドの高いヒナギクにとってそれは、自分の評判が下がることなんかより遙かに大切なのだった。 「……すみません」 「どうして謝るの? 謝ったりしないでよ。あの夏を過ごしたことが生徒会長として不適格だって言うなら、私はそれでもいいって思ってるんだから… …ほんの少しの我慢よ。今はみんなに好き勝手言われてるけど、選挙が終わったらそれも無くなるわ」 桂ヒナギクは支持率が下がってることに落ち込んでいるのではなかった。地位に恋々とするより自分の生き方を貫く。学校中から非難され傷つくことが あっても、心の芯が揺らぐことは決してない。小さい頃から逆境に耐えつつも人生の正道を歩んできた彼女は、どこまで行っても桂ヒナギクなのだった。
……だが人生の裏街道ばかりを歩いてきた借金執事・綾崎ハヤテは、そんな彼女の覚悟を素直に受け止めることが出来ない。 「そんな、ヒナギクさんが全部を背負う必要なんてないですよ! 今回のことは僕が悪いんですから」 「ハヤテ君……」 自分と一緒に逆風に立ち向かおうって言ってくれるの? ヒナギクの胸の奥にしまった恋心に小さな灯りがともる。しかし鈍感さでは類を見ない少年は、 少女の期待を完全に裏切った。 「だってヒナギクさんに一緒に暮らして欲しいって頼んだの、僕なんですから! ヒナギクさんは絶対嫌だって言ったのに、顔を見る度ぶん殴るくらいに 僕のことを嫌ってるのに、僕とアーたんのために嫌々つきあってくれたんですから!」 「……えっ?」 あんまりな言い分に石化するヒナギクを尻目に、ハヤテは高らかに自分の勘違いを歌い上げる。 「アーたんの母親役を頼んだのは僕、ルカさんのサポートを頼んだのも僕です! ヒナギクさんに嫌われてるのを知ってて、迷惑のかけ通しなのも承知で、 いつもいつも無理難題を押しつけてきたのは僕なんです! それでヒナギクさんが会長になれないんだとしたら、それは全部僕のせいなんです!」 「…………」 「僕、これから新聞部に掛け合ってきます。ヒナギクさんは僕なんか好きじゃないんだって、出来の悪いクラスメートのために嫌々つきあわされただけ なんだって! そうすれば誤解もきっと解けますよ」 「ハ……ハヤテ君の、バカ―――ッ!!!」 異次元から現れた妖刀・白桜がうなりを上げ、乙女の怒りを浴びた鈍感執事を生徒会の壁へと弾き飛ばしたのは、その直後の出来事だった。
そして。そんな2人のやりとりを隠しカメラを通じて動画研のモニタで見ていた面々は、ハヤテが豪快に吹き飛ばされた瞬間『ですよねーっ!』と 一斉に声を上げていた。 「うん、この映像があればヒナへの誤解も解けるよな」 「良かったよぉ、ハヤ太くんがヒナちゃんのこと好きじゃなくて」 「まったくだ、私のヒナがあんなやつになびかなくて、本当に良かった」 三者三様の視点から安堵の声を漏らす生徒会三人衆。そしてその脇では、今回の秘密中継に参加した新聞部有志たちが部室に撤退すべく 一斉に立ち上がっていた。 「いや、この映像を見られて良かった! 投票日より前に会長の真意を聞けて安心しましたよ。明日はこれで号外を打ちます。 桂会長に黒い疑惑など無かった、彼女は頼まれて断れなかっただけの、正義を貫く純白の騎士だったってね!」
こうして翌日の朝に配られた3度目の号外記事では、新聞部のスタンスは180度変わっていた。そしてその日の午後、選挙投票日の前日に当たる 全校生徒向けの立ち会い演説会の冒頭では新聞部の面々が壇上に登って一斉に謝罪し、桂ヒナギク会長の名誉を回復すべく応援演説を買ってでたのだった。 この行動が浮動票のみならず、消極的ながら日比野文に投票しかけていた生徒たちに与えた影響は絶大だった。こうして本来の支持層を 一気に取り戻した桂ヒナギクは、翌日の投票で下馬評通り圧倒的な票数を獲得し、無事に生徒会長職の再選を決めたのだった。
《これで良かったのよね》 力及ばす落選に至った日比野文陣営であったが、参謀役のシャルナは逆にホッとしていた。勝ち目なんて微塵もないと思っていたから卑怯な手も 使ったし、実現できそうにない公約の連発にも目をつぶったのだ。もしもあのままの勢いが続き、学園一のアホ会長が本当に誕生していたら… …会長自身はともかく、シャルナの神経は擦り切れていたに違いないのだから。 とはいえ、目の前の親友に向かって本音を吐くほどシャルナも薄情ではない。 「残念だったわね、文ちゃん。あと1日投票が早ければ、奇跡も夢じゃなかったのに」 「ふぁい! 来年こそは絶対当選してみせるですよ!」 落選したとはいえ選挙中の手応えばっちりだった日比野文は、ぜんぜん落ち込んでなど居なかった。良かった、文ちゃんが元気でいてくれて… …当初の目的を達したシャルナは胸をなで下ろす。しかし文の意識は早くも来年の選挙戦へと飛んでいた。 「よぉし、来年は頑張るですよ! やっぱり握手券だと支持者の数に限界があったのです。来年は全校生徒に向けて、宿題なしのパラダイスを 打ち立ててみせるのですよ!」 「……どうやって?」 「ふっふっふっ、文には秘策があるのです。あの『夏休みの敵』っていう極悪非道の問題集があるじゃないですか。あれの模範解答を7月末までに作って、 生徒向けの裏ネットに流すのですよ! これを裏の公約に掲げれば当選間違いなしなのですよ!」 「いや、だから、どうやって? あれを1週間そこらで全部解けるほど、文ちゃんって頭良かったかしら?」 「まさか! 文の理想は遊んで暮らせるパラダイスですよ、宿題なんてやるわけないでしょう!」 嫌な予感を感じて半歩後退りするシャルナの腕を、日比野文は瞳を輝かせながらガッシリとつかんだ。 「シャルナちゃん、私たち友達ですよね?」
それから1年後、桂ヒナギク引退後の生徒会選挙に再出馬した日比野文は型破りだが効果絶大な裏公約を掲げ、見事に生徒会長に当選する。 その裏公約がどうなったかは……夏休みの終了直後、生徒会長のリコール規定を求める動議が満場一致で採択されたことから、お察しいただきたい。
Fin.
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